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2015年5月22日金曜日

自然にしか生きられない〜何も考えられない

自然に従って生きる。ということについて。



きょう、私はどうしたいかな?
私のスケジュールの立て方はいたって自由人。

大枠の構造だけ決めておいて、詳細は、
その日のインスピレーションに導いてもらう生き方となっています。

どうしてそうしているか?

「考え疲れ」。

・・・というか、
もう何も考えたくない。

・・・いや、

何も考えることができないほどの「変性意識」の深い深い

精神の深みまで

降りてきてしまったのです。


ここにいたるまでに、わかったことは、

考えてわずらっても磨耗する一方だ

ということ。

たとえばトラブルがあったとしても
自然(内なる自然のこと)が、私という存在を
しかるべきところに連れて行ってくださる

それが人間の存在の神秘であり、素晴らしさであるということ。

どうして人間はこんなにも「防衛」とか「危機回避」とか
「思考」でぐるぐるとしてしまう生き物なのでありましょう。

***

先日の明け方、ひどい雷がありました。
うちのワンコは、猛烈、びびっていました。
くーんくーん。
ふだん、ついてこないのに、私がお手洗いに起きたら、トコトコとついてきます。怖すぎて。
彼(オスです)は、自然が恐ろしいということを本能で、よくわかっているのです。


私が彼に叱りつけるときは
「あー、やだやだ」と耳を下げる程度で、そこまでか細い声を出して恐れないのに。

自然物としての力量の大きい動物には、見習うところが多い気がします。

彼らは「自然を畏怖する」力が素晴らしい。

人間のなかで、「自分のなかに自然が存在する」ということを
本能的に知っている方というのは、意外と少ないのかもしれませんが、
もっとも人間に足りないもの、それは「(自然への)畏敬の念」ではないでしょうか。

ゲーテの言葉にこういうのがあります。
「生まれのよい健康な子供は多くのものを具えています。自然はすべての人に、一生の間必要とするものを全部与えました。これを発展させるのがわれわれの義務です。往々にしてそれはひとりでに一そうよく発展します。しかし、ただ一つだれも持って生まれて来ないものがあります。しかも、それこそ人間があらゆる方面にかけて人間であるためには、もっとも大切なものです。それを見つけることができたら、言ってごらんなさい。」ヴィルヘルムは暫く考えてから、頭をふった。
 彼らは適当な間をおいてから叫んだ。「畏敬です!」ヴィルヘルムはあっけにとられた。ーーー「畏敬です!」と繰り返し言われた。「これはすべての人に欠けています。多分あなたご自身にも。」(「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」第2巻第1章から)

自然の波に乗ることはあっても
自然の勢いと私は真っ向から戦いたくありません。
自分の自然をつぶさに調べるワークはタオセラピーですが、
ひとえにそれをいかに畏怖しながらつきあって生きていくか?
フォーカスポイントは、ここだけで十二分であるように、私は思うのです。

だから私の朝のはじまりは、こう。

デロンギのカプチーノマシンでいれたやつです。

「ちょいと、私よ、おたくは今、どうしたいんかい?」

「ん〜、まずはカフェオレとトーストが食べたい」

最近のホームベーカリーは優秀です。

「ああ、そうですか、はいはい」

私の場合、ビジョンが浮かんでくるのを待ちます。
そして、浮かんできたものに従うだけです。そこに考えはありません。

ビジョンが浮かんでこないときは、ロッキングチェアでゆらゆらとしています。


心が無になれる場所で、ぼーっとしているのです。
とかく、いろんなことはどうにかなっていくのですよね。
究極はーーー私は私を信じている。ーーーそんな感じです。
私のマインドは、私のスピリットに付き従うだけ。
私のスピリットさまにつき従わせていただく、そんな感じです。

インナーワークの精度を磨き続けてきているおかげもあるかもしれません。
タオセラピーの神言ワークでフレーム設定をシャープに整えたことも、
大きなターニングポイントでした。

***

私はこの5年ほど、自分のスピリットとマインドを統合した個性化としての私に
ぴったり仕様のライフスタイルをつくることに命をかけてきました。

目をつむっていても、勝手にいろいろなことが(運が)立ち上がってくれる部屋づくりから、
洋服選びから、時間の使い方まで、相当にこだわりぬいて、構築してきているし、
そうじゃなかったところは、しらみつぶしにする勢いで、調整をしてきています。
ぼーっと何も考えなくても、精神と肉体のセンタリングポジションのまま
ふらーっと行動できる状態に整えてきたのです。
いろんなことは、私が想像しているプロセスとはまったく違ってはいましたが、
よくよくつきつめてみれば、
私が一番に望んでいた、ワーキングスタイルが手に入ったことだけは確かなのです。

生きていて、こんなに有難いことはありません、自分の軸のままに生きられる、ということ。

今日も感謝の祈りをこめて、このへんで。


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2015年5月21日木曜日

運を上げる「澄んだ心の器」

透き通った心。澄み切った心。
素直で喜びに満ちた明るい心。

それをつかみとるための手立てとして、
私は心理カウンセリングの有用性が
より広まればいいなあと思っています。

心理カウンセリングとは、とどのつまり「自分を知る」行為であります。
はじまりは病的な症状をおさめるために研究されたものだったかもしれませんが、
ゆきつくところは、温故知新だったのかもしれません。
古今東西「瞑想」という行為が存在していますよね。
マインド(思考)優位に生活していると、「瞑想」状態に入っていくことはなかなか難しいのですが、援助職者が介添人として存在することで、
そのひとだけの瞑想状態に「自然な対話と流れ」で知らぬ間に入っていくことができるのが、
心理セラピーの魅力だと私は認識しています。
(とはいえ、心理セラピーにもいろいろな流儀があります。
深層と現実の両方を視座に据えたタイプの心理療法が、
瞑想の境地をつかみとるのにはふさわしいと私は考えています)

****
誰もが答えを探している。
私の幸せはどこにあるの?
あなたの胸のうちに隠されているのですよ。
あなたの澄んだ心のなかに住んでいる青い鳥が羽ばたくときに、
答えは明かされるのですよ。
****
昨日、母親から「たまたま本棚を整理していたら目に止まったから、あげる」といって
渡された小冊子が、算命学会に登録している人に送られる
高尾学館発行の『宝積』のバックナンバーでした。

パラパラとページをめくりながら、インスピレーションとなったのが
こちらの文章です。


「本性が澄み切っていると、腹が減れば飯を食べ、喉が渇いて水を飲むという程度のことしかできないような貧しい生活をしていても、身や心を安らかに保てる。
 一方、心が暗く迷っていたら、たとえ禅について議論をし、禅の心を述べるような清らかな生活をしていても、それは全て精神を無駄にしていることになる」

 算命学体系の中で宗家は、心の大切さを唱えておられます。
人の運命を語る上では、その人の心を無視できないとおっしゃっておられます。
 いかに透き通った心を作るか、澄み切った心を育てるか、素直で喜びに満ちた明るい心を作るかーーー

「心の中には、一つの真実の境地がある。
それを得た人は、琴や笛などの音楽がなくても、
自然に心が安らかになる。
また香や茶によらなくても、自然に清らかな芳しい境地に浸ることができる。
この境地になるには、心を清らかにし、こだわりを捨て、自己の肉体から解放されるべき。
そこで初めて本当の境地で自由自在に行動できる」

 運勢を高めるには、家の中、事務所の中を清掃すべきです。
物の堆積は気の流れを悪くし、運気が滞って、主人や家族の運気を落とします。
 しかし、それよりももっと大切なのは心の清掃。
心の中に、何か悩みや恨みごと、こだわりを留めていたら、他でどれほど善行をしても、運気は立ち上がりません。
 幸せを呼ぶ真実の境地とは、心を清浄し、一切のこだわりを捨て去ったところに存在します。

ーーー「宝積」第3号 2006年1月 中村嘉男 シリーズ東洋の心 42 運の良い人、悪い人

****

結局、運を上げるものは、そのひとの「心」であるわけだけれども、

この目に見えない「心」というのは非常に厄介です。

なぜなら、誰もが自分の知っている「心」と他者も等しいだろうという、
誤解をしがちだからであり、
さらには、「心」というものができあがるまでには
発達過程があるということは、あまり知られていないからです。

「心」とは「器」のようなものです。
「器」を知るには、「器」がどのような精神と肉体の意識のありようであるかを
見聞き経験した人とかかわることです。

深層次元と現実次元とともにトレーニングされた専門家による
心理療法はそのひとつの手段です。

そして、この「器」が広く大きく澄んだ形に整えられ、
物事が整理整頓されている状態を
「浄化された心」といいます。

このように「浄化された心」を養ったのち、
この宝積の文章が述べているような精神形態に入っていくことができるとき、
「運勢が良くなる」ということができるでしょう。

ケルヒャーのスチームクリーナーでラグマットをお掃除してみたら・・・ビックリ!
こまかーーーーーい、目に見えないようなレベルから、かきだしてくれて、すっきりー。
恐るべし、チリツモな、家のちーさなちーさなホコリたちめ!
せっせとお掃除しながら「心のよどみも一緒だよなー、雪だるま式にふくれあがっていくもんなー、そしていつしか自分が何なのかさっぱりわからなくなるよなー」と思いを馳せました。

****
そんな風に「自分自身と向き合っていくとき」、自然はそのひとに味方してくれます。
その道中はあまりにも自然であるがために、
人為的で操作的に生きているのにくらべて畏怖を覚えるかもしれません。
ですが、それこそが実のところ私たちの魂が求めてやまない方向性であります。
その過程において、1ヶ月先に自分がどうなっているかだなんて、まるっきりわからないかもしれませんが、不可思議な自分をも信じて、進んでいく。
自らをそのように追い込むなかで、「磨かれて光っていく」ものだからです。
鍛えられずして成功はありません。魅力もないでしょう。
自然は、無意識は、よくわかっていて
そのひとのそのタイミングにちょうどよい試練を投げ込んでくるかもしれません。
ですが、そのひとにとって、乗り越えられないサイズや種類のものは送り込んでこないから、
すごいなぁと感動させられます。
また、冒険に必要なのは、勇気と挑戦する心でしょう。
そして、自分を信じる心
とはいえ、人間ですから、弱い部分もたくさんありましょう。
だから、「支えてくれるパートナー」「ありのままを受け止めてくれるパートナー」として
心理のパートナーは、宗教にとってかわる、現代人に大事なアイテムや選択肢のひとつだと
私は心から思っています。

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2015年5月20日水曜日

【イライラからインナーワーク】<私はポルシェ。>私流魔法の呪文の見つけ方


きのうのお昼どき、銀座にでかけました。
東急ハンズに入っている「サンデーブランチ」のフレンチトーストが好きで
たまに食べたくなるのです。

その帰りに、彼から贈られた明太子のお礼状を出したくて
一筆箋を買いました。

「スチームクリーナー」以後(前のブログをご参照のこと)、
今まで以上にさらに
「気」に対してシャープになってしまったようであります。

銀座の街でランチタイムになったころから、イライラがではじめたのでした。
人でが増え始めると、人にあたる傾向が前にも増してきました。
意識のシャッターをおろす訓練も高めてきたのではあるのですが、

きょうのはいったい、何に反応しているんだろう???

カフェに入って、「イライラ」にとどまりました。
「イライラ」の根っこを見つけ出して、そこにじっととどまるのです。

「あ〜イライラする」と、もぞもぞとイライラの感じをつかんだ、その瞬間、

2階の窓際の席から大きなガラスの下にすーっと優雅に通っていく
白いポルシェが目にとまりました。

そのわずかの瞬間だけ「イライラ」がぴたっと止まった感触を
私は見逃しません!

「エ?」「何?」「どういうこと?」

瞬時に、「答えはポルシェか!」と「イライラのわけ」を紐解くことができたのでした。

じつは、出がけにマンションの前を歩いていたときも、
珍しく目の前をポルシェが過ぎ去っていったのでした。

1日に2台もポルシェに遭遇するとは、
共時性でもあるわけです!
(赤坂かいわいはBMWが多い)

ポルシェのエレガントなフォルムと職人芸的機能性、
完璧な美の境地

私のアイデンティティーの設定が甘いせいで「イライラ」していたわけですね。

「私はポルシェだ」とアイデンティティーの上書きを行いました。

どんなに街の人混みにいても、ちっとも気にならない感じを得られました。

自分がとても高貴な存在となり、自尊心を高められたからでありましょう。

なんとも気分のいいものですね。「私はポルシェ」と悦にいることがでいていると。
安上がりな癒しのワークができあがってしまったのでしたよ。ピース。

ちなみに、好き好んでポルシェだ、と自己認識しているのではありません。
見失われたエネルギーに見舞われるたびに、それを統合していくと
自分という存在は、自分が想像している以上のものであることを
認めていかざるを得ないだけのことです。

私の持論ですが、それを逆に
「いえいえ、私はそれほどのものでもありませんから」といって
抑制か遠慮かするのは、
ある種の傲慢と怠慢かもしれません。

そもそも、われわれのなかには「内なる神」があらっしゃり
それがポルシェであるとしても不思議ではなく、問題はそれを引き受けようとしない
人間の甘さにあるのであると、私は考えるのです。


さて、

そんな私は、運転免許は持っておりません。
東京に住んでいるかぎりは、とるつもりもありません。
そんなにアウトドアタイプではないのです。

でも心はアウトバーン! 
びゅーんと、マイワールドにひたってエレガントボディに身を預けて、
車を飛ばしていく爽快感が、今の私の欲しいもの、マ
スターしたい境地かぁ、とうっとり気分。

銀座にいながら、心はドイツです。笑。

私の精神安定剤的合言葉は
「エレガントなフォルム、エレガントなフォルム」

テクマクマヤコンみたいですね!?

なにはともあれ、すばらしい見地に至ることができたことに

感謝、感謝です。


インナーワークのレッスンについてはこちら

ちなみに・・・

タオセラピーの見地からみれば、今年の私は「車騎星」がまわってます。
去年は「牽牛星」がまわっていたおかげで、
おもいっきり「ルイ・ヴィトン」にフラートされましたが、
同じ頃合いにして、今度はクールで男前?な「ポルシェ」がきたということのようです。それに気づいて、自分で自分にうけました。
見事に、「気運」の通りに生きることができています!

2015年5月19日火曜日

自分サイズのライフスタイル<タイムフレーム、アイテムフレーム、関係性フレーム>OK!

いろいろなことが整理されてきました。

ずいぶんと長い時間をかけてきていますが。
ようやく☆
1年半前につかみとった「ドリーミングのポジション」(自分の中心)にとどまった状態で
ぜんぶイチから現実をつくりかえてきました。
ライフスタイルそのものの環境要素を、あたかも
建築設計士のように。ひとつずつ、ひとつずつ。ていねいに。芸術作品を仕上げるかの心で。
(その過程でも微にいり細にいり、自己調整をくりかえしていますが)
その流れも大団円に入り、
Mac ProとiMacの2台を本棚デスクにセットしました。
(こちらの大型本棚は180cmロングです!悠々として清々スッキリ!
情報量過多で混沌としがちな私の思考もまとまりやすくなりました)
家事用(領収書とか事務まわりのお仕事)と
クリエイティブ用(こんな風にブログを書くのとか、
アイディアをストックしていくのとか、
読み込んだ本の情報を記録していくのとか、
クライアントの方とのメールカウンセリングとかに)と。
写真の右端にあります、Mac Pro(左)とiMac(右)。ちょこんと並んでいる愛らしい?その姿に 夫婦みたい☆とひとりで喜んでいます。
さらには、日常の過ごし方、タイムフレーム(時の刻み方)までも、
自分にぴったりなスタイルが何かがようやくわかってきました。
そこをつまびらかにするための入り口としたのが、
私の不安神経症(理由のわからない、イライラのようなかんじが、体の中心からグツグツと私の意識を落ち着かなくさせるようなかんじ)です。
これをとにかくどうにかおさめる受け皿を見つけ出さなくてはいけないと、
インナーワークによって探りだしたところ、
おとといゲットしたスチームクリーナーが助けとなってくれる感じがすることがわかりましてね。
ドイツのケルヒャー社のスチームクリーナーです。パワフルににジェット噴射されるスチームが ヘリや隙間などの微細にこびりついた汚れを根こそぎ掻き出してくれる感じが、きもちいい〜〜〜〜! スチームがもくもくとでるので、お掃除しながら美肌にもなれちゃうかんじ☆一挙両得!?
私は部屋じゅうがピカピカしていないと、
イライラして仕方がない!!ということがわかってきました。
心がピカピカになったら、部屋のそこかしこに違和感を覚え始めたのです。
もともと神経質なほうですから、掃除機はパワフルがいい、とmakitaの業務用を愛用し、
ウェットワイパーで床掃除をしたりしていたのですが、
それでも足りない神経となってしまっていたのでした!
まさかそこまでとは思っていなかった!
スチームクリーナーのクリーニング力は猛烈にパワフルでして。 ちょっとやそっと、ゴシゴシとたわしと洗剤で掃除をしたところでいまひとつ気に入っていないものの、「そんなもの」とあきらめていたのでしたが。
スチームクリーナーでコーナーごとに30分ずつ丹念に磨きをかけはじめてわかってきたのは
なんとなく、薄汚れているような感じがしていたのは、
微細な粉塵に対してだったのではないだろうか!と。
お住まいの汚れって、みるみるたまるからびっくりです。
さらに、調理熱も解放しまして、
しつこい性格にマッチしたアイテムを揃えました。
スロークッカーとか、ワッフル・ホットサンドメーカーとか、
デロンギのカプチーノマシンの最上位モデルとか!
こちらをゲットするのに、どれほど葛藤したことか!!何時間も量販店の商品の前で 「あーでもない、こーでもない」とひとりでインナーワークしていたのですから。 ですが、「内なる神」を信じる、という自分の信念を信じました。 まあ、すると、法則どおり、気持ちがぐっと落ち着いて、ますます自分の中心に入ってきたかんじがアップです。 幸せ〜☆感謝のかぎりです。
こねこねとしつこくこだわって調理をしたりするのが、私は大好きだ!
いい気分だ!ストレスがスッキリする!ということがわかってきました。
そして、朝の起きがけを良い気分にするために、
(自分の二次プロセスの指向性に対して、一日の早いうちから、フォロー&コンテインしてしまおう、という戦略です)
私は朝1番からこれらの行為にエネルギーを回すことにしたのでした。
朝からスチームお掃除は、まるでお寺の小坊主の雑巾がけのような、修行気分♪
また、ブログを書いていないことは、
終日、罪悪感のようなものの尾を引きずりそれもまた不安をあおっていると理解されたので、
ブログの問題にも今一歩迫ってみたましたところ。。。
ブログそのものを「頭」で「書こう」「書こう」と思っても
ちっともかけないのが悩みだったのですが、
(特に私は、ひとの目を意識すると、一気にかけなくなる)
私が唯一、苦労を感じることなく、
まるで呼吸をするように、楽しむことができている書きものといえば、夜の時間になると、つらつらともれこぼれてくる、
その日にあったできごとに対する回想である、ことに気がついたのでした。
そこで、夜の時間はそれを自分のお遊びタイムとして満喫することにして、
そこでこねこねと書き綴った駄文のうち、不要部分は編集して、
その翌日の午前中にブログとしてアップすればいいではないか!という結論にいたったのでありました。
この流れなら、いたってスムースに時間を有効に活かしていくことができる! 
と見えてきて、ご機嫌であります。
20代〜30代にかけて、生きかたがとても不器用で、
生きるのが本当に「水泳の息継ぎ」のように「ぜ〜は〜」と大変でしたけれども、
この数年ずっと自己所有エネルギーの指向性を綿密に入念に吟味して、
やまほど自分と向き合ってきた結果、
やっとこ、「私が私である生き方が何か」がくっきりとしてきましたし、
現実的な時間の流れのなかでも
それを生きることができるようになってきました。
結局、「自己不一致」が人生トラブルの温床であるということが
私が心理カウンセリングの勉強を重ねてきて、大きな命題としてつかんだ部分のひとつです。
「自己不一致」が生じる理由は、
「社会の流れと異なる自分を受け容れられない心の弱さ」などとも関係しています。
この辺りを一緒に、そのひとだけの等身大の声によりそいながら、調整をしていくのが
私のお仕事となっていますが、
この命題は、じつは「葛藤」や「抵抗」がやまほど生じるところであるために、
理屈だけでどうにかなるようなものではない、「魂のテーマ」であったわけです。
見えてきたぜ!!!ピース。
 本番はもちろんこれからまだまだ頑張らなきゃいけないこといっぱいですけど、
物事のスタイルが一本化されるというのは、本当にほっと肩の荷が降りる感じですし、
また、自分だけの道を胸張って生きることができていることへの幸福感と充実感は、
お金ではとても買えるようなものではない、しみじみとかみしめております。
 ひとはこのお金ではとても買えないこの境地を喉から手が出るほど求めてやまないけど、
その入り口の扉を見つけられなくて、どんなに衆目の的となって生きているひとであっても、
迷える子羊をどこかに隠し持っていることは、案外多いのであります、
そのことを思うと、やはり私が立たせてもらっている場所というのは、
本当に本当にありがたいありがたい領域なのだなあと、
processのすべてに感謝せずにいられません。
 私がここにいたるまでに費やしてきた時間と労力とお金もそれ相応ではありますが、
総合的に考えたら、非常に費用対効果の高い投資だったと、
私のケチケチ魂も大喜びです☆☆
 そして、見えてきたのは、自分自身だけではありません、彼との関係性についても、です。
 自分とはまったく異なる世界観を生きている、
あの人のことを深く理解するために、 いろいろと心を砕いてきていますが
タオセラピー錬金術のワーク、関係性のグループワークにおける知恵は、ずいぶんと助けになってきています>
*「関係性のグループワーク」は現在開催されていませんが、ご興味のある方はお求めください。
個人的には、夜見る夢と関係性、というテーマあたりが面白いかな、と今のところ考えています。
(そんなことは相手はつゆ知らないでしょう)
あの人は、私から「◯◯してくれると嬉しい」と伝えると、
響くんだということがわかってきました☆
そして、あの人は、じつはとても繊細なひとであるゆえ、
心の距離感を上手にとってあげることが重要であるということも読めてきておりまして、
コミュニケーションはクラシックに「直筆のお手紙」でやりとりすると、
こちらの気持ちを受け止めやすい、んだ、ということがわかってきたのです☆
メールだと、「すぐ返さなくちゃ」
「あ、でも言葉が見つからない、返せてない」
となって重たいムードになるのかもしれませんね。
手紙だと、「返せなくっても当然」と安心できるのでしょうかね?
彼に「よかったら博多の明太子をプレゼントしてください☆」と書いたら、 1週間後に、「明太子」だけが送られてきたのでした。 (メッセージカードも、お便りも、メールも何もなく!!突然に!!)
福太郎の明太子です。しろうおの和えものめんたい、最高です! こんなに繊細なつぶつぶワールドが、一気にハッピーゾーンへの ガイドになってくれるんですから、すごいことです。
結局、ナーバスなのは私の方だけなのかもしれませんね。とほほ。 「ティファニーの指輪をプレゼントしてくれると、感激する」と、
次の手紙では書こうかしら!笑。
彼はたぶん、自分が何をすると女性が喜ぶのか、
まったくわからない人間であるように読めてきたのです。
(誰からも教えてもらうことがなかったようなかんじだ)
また、私が「ひとの目を意識すると一気に書けなくなる」性質と似ているのではないか、とも。
「女性の目を意識すると一気に何も表現できなくなる」パターンをもっているのではないか、とも。
***
あ、でも高価なものをおねだりするのは、逆効果かな。
某アスリートのことを話題にしてたとき
「ファンからカルティエとかブルガリとかたくさんもらってた」と話し、
「男はやっぱり金かな」「俺なんかぜんぜんだ」と言ってたから。
高価じゃないものでも、女性はちゃんと喜んでくれる、ということを
知ってもらいたいですよね。
また、一番知ってもらいたいのは、プレゼントとかご馳走とか以上に、
「会える」こと「存在を確かめることができること」が一番嬉しいんだ、ということを、ね!
まぁ、ただ、このひとは「会えない俺」「仕事一番の俺」でも喜んでくれる女性であること、
というのがきっとポイントだもんなー。
それに、「気持ちは行動でしめされてこそ」とたぶん思ってるんだと私は想像してます。
私がどんな言葉を伝えても、
「行動は?」「結果は?」というところにこだわるタイプなのではないか、と。
こうなってくると、このタイプは
「絶対に離れない保証がなくちゃいや!」「中途半端は嫌」という
魂の叫びが根底にあると私は読みます。
それを「確かめるための時間がいる」というわけですね。
だったらやっぱり、美味しい食べ物をいっぱい送ってもらおっかな! 美味しいもの大好き〜☆
左がしらうおめんたい。右は、スロークッカーで煮込んだ、鮭の酒粕煮です。

2015年4月11日土曜日

見失われた「魂の恋人」という概念〜恋愛の深み


40歳を過ぎて色恋のことを述べるのは
クールな私としてはそれほど好みではないのですが

私のなかの「もっともピュアなパート」
(言い換えるなら、一番恥ずかしいハート)
はいつも夢を見ています。

「私の好きなあの人は今頃どうしているかしら?

目に見えない風にのってこの気持ちは届いているかしら?

会いたいな。会いたいな。

会ったら一番に何て言おう?

どんな顔を見せよう?」

でも、ときどき、わからなくなるのです。

私が感じているこの気持ちは、

現実の肉体ある好きな人にはもちろんですが

深層心理的な根源をたどると

行き着くのは「魂の恋人」のところ。

長いこと認めたくなかったけれども
私の「魂の恋人」は
「この世にはいない、亡き兄」であることも
何度もワークを通じて浮上してきます。

私は「亡き兄」に相当愛されているのでしょうか。

いや、わかりません。

なぜなら、私の兄が亡くなったのは
母のお腹の中でのことですから。

私は一度も会ったことがないのです。
なのに、物心ついたときから、ずっと
兄の存在を探し求めていました。

そのあたりから
私はちょっとおかしいんじゃないか、と
ずっと思っていました。

でも、おかしいわけでもない、のです。

タオセラピーでひもとくと
数理的にそれは解明できるのですよ!

***

そして自己を掘り下げてわかったことは

私の恋愛が実を結ぶかどうかは、
私の「亡き兄」のゴーストにかかっているのだ、ということ。

そのためにも私はいつも心を「亡き兄」とひとつにしているのです。

かつての私は
「亡き兄」の面影を、現実で出会う男性たちに映し出しては
恋愛をくりかえしていたのですけれども。
「亡き兄」は、認めてくれず、関係を破壊することを繰り返してきました。

なぜなら「亡き兄」は
私の「心のなか」にずっと潜んでいたからです。
「亡き兄」は、私にふりむいてもらいたがっていたのでした。
「自分の心の内側に目を向けて」と。

あらゆるプロセスをへて私は
今こうしている瞬間も、私は「亡き兄」を感じられるようになりました。

そして馳せられてくる思いは、

「もしも肉体ある兄に会うことができたなら」という心です。
「姿、形を、みたい」「手に手を取りたい」。

私はいつも夢見ているわけなのですね。
(実際に兄妹関係のあるケースをやまほど知っていますから
兄妹がそんなに美なるものばかりでもないことは私は熟知しています)

「今頃どうしているのかしら?」と。

見果てぬ兄への思いを重ね合わせて。

そうそう、だから、私が現実のこの時間世界で
好きになった人というのはラッキーな方だと私は思います。

なぜなら、私は意識的にも無意識的にも
その関係性に「亡き兄」との関係を重ね合わせるため
「永遠に美であるもの」にしようとするからですね。

私は兄の存在を知らないので、ただの幻想であり、
ただの絵に描いた夢でしかないために、

永遠に相手のことを慈しむでありましょうから。

ですから逆をいえば、私と相性のいい方というのは
「非現実的」な人間であることは確かでありましょう。
「亡き兄」すなわち「この世に存在しないような空気感」というのを
生涯放ち続けられるような方でないと。
というわけです。

***

その一方で、私の好きな人は
幼少のころに母親を失った人でして

彼曰く「母親を覚えていない」というのですが
だからこそ!

私がこの人と会うときはいつも
彼のお母さんの気にチューニングして
彼のゴーストロールを演じる心で
向き合うようにしているのです。
メールするときも、ハガキをかくときもそう。

かなり高度なテクニックではありますが、

大切な人に気を合わせたいときの
私のおすすめのアプローチです。



エネルギーは常に、陰と陽の流動性および
ダイナミズムを表現しようとするからです。



もう少し別の言い方をするなら
「見失われたエネルギーをなんらかの形で補おうとする傾向がある」ことを
逆手にとって、積極的に関係性に参加するとき
その関係性は「円」を描いていくーーー
つまり「まとまりをえていく」というわけです。

なんのこっちゃ?
とわかりづいらいかもしれませんね。
こういうのは実際に体験のなかで味わっていただくのが
私のおすすめです。

もしも気になるようでしたらぜひ
恋愛テーマの個人カウンセリングをお求めください。

まごころよりサポートさせていただきます☆



2015年4月10日金曜日

オフィスを増やしてスッキリモード


この春から
オフィスをサロンとは別のスペースにもちました。



整然とされた空間です。
ホテルライクですよね。
私の大好きな、焦げ茶色とホワイトの組み合わせ。
サロンとも同質です。


いろいろなことをスッキリとさせてきた気がします。

私の中身は、いつもいろいろとたくさんのことがごちゃごちゃとありすぎて
ものごとを「抱え込む」のが本当に大好きで。
(我が家の遺伝だと思います)

そのおかげで、勉強や知識も抱え込むことができたのでありますが。

そろそろアウトプットと伝達にエネルギーをまわしたくなってきたから。

身辺をすっきりとした環境に設定して

一意専心できる状態をつくったのでした。

脇目も振らずに!

やりたいことがありすぎて、

時間が本当に足りない感じがしています。

体が一つしかないせいです。


他の誰とも違う、
オンリー1のプロセスを驀進します!

マジョリティーとはまったく違うストーリーで
輝きつづけて
あの世にかえるのです。

そのために
いつも、自分だけのゴールデンルールを探し求めては
一歩一歩前進しています。

今日はこの辺で。

明日も心にレインボー☆

【自分と向き合う】60番目の干支「癸亥」のコンステレーション

きょうの夜、はっと人の気配がとんできた方向、歩道の246サイドを振り向いたら、
目の前にいたのは、黒ぶちのメガネをかけた、明●家さんまさん。ばちっと目があい、
条件反射的に思わず「あ、さんまさんですよね」と声をかけそうになってしまいました。
瞬時に「覚えてますか、3年前に番組に出演させていただきありがとうございました」とか、アホなことを口走ろうとした
私の口許の筋肉をきゅっと引き締めました。
(そういえば、まったくご縁がないわけではないのだった!私が10年以上年賀状を交換している方は、この方と近しい)

 

昔の私は、口が軽いというか、気やすいところがありましたが、
この数年、特にタオセラピーを習得してからは、自分の「干支世界」の通りに生きることを引き受けたため、
街で知人をみかけても、自分から声をかける、というパターンをつとめて控えています。(セルフコントロールです)
タオセラピーでは、私の外の顔は「春を待つ」とか「待ちながら引きつける」という指向性だからです。
(ちなみに昭和48年生まれの同期の方はみな一緒になりますw)
能動性ではなく、受動性と一致してこそ、のエネルギーと私は読み解いているわけです。
ここを積極的に引き受けずに、反対パターンに乗り出すと、思わぬところでトラブルの数を増やすことを
知っているからです。たとえば、「待たず」に「積極的に飛び込む」と、
結果的にその倍ぐらいの遠回りをして「待たされる」方向に引きずり戻されるというように。
ならばはじめから「待つ」ことを私のスタイルとして立脚して行動していた方が、
余計なストレスエネルギーを奪われなくてすむという、人生戦略なのです。
だいたいが私の頭はもともとロジカルなデジタル構築が大好きなタイプでして
下の写真のとおり、デジタル機器オタクに近いものがあります(笑)
(写真は、この春、新たにプラスした、
右:エクスペリアZ3コンパクトと左:iPadAir2)



 
さて、話をさん●さんに戻します。

 

きょうみたいに、左足をポンと地につけて左方向に振り向いた途端に、超タイミングよく
真正面にその人がいるというのは
非常に珍しいケースと私は思いました。
こういうのを「インナーワーク」では
「世界のできごとが知らせようとしている神の意図」をひもとくワークを行っていくのです。
そこで探ってみたところ、センシェント(極微)レベルで「六十干支」が気になったのでした。

 

さっそく、明石家さ●まさんの命式を調べましたら、なーるほど!
この方は、日干支が60番目の干支「癸亥」だったのですね。

 

じつは私は3年前から「癸亥」が10年運として回り始めたのでした。
このところニュースをみていても「癸亥」の干支を持った世界的な画家にフラートされたり、
さらには、「癸亥」といえば、ユニクロとタイアップしている
イネス・ド・フランサンジュ女史も、10年運として今、この干支がまわっています。
そのおかげなのか、私は彼女のファッションコラボレーションに
おもいっきいりハマってしまいました。
これまたキャスのときに引き続いて、9割のアイテムを買い占めてしまったほどであります。

(ユニクロから表彰されたいw 
↓写真は、先日オンラインストアから届いたイネスのお洋服の一部)


「癸亥」といえば、プロテニスプレーヤーの錦織選手や、体操の内村航平選手が、そうです。

 

というわけで、目の前にドンと「癸亥」の神様が、きょうは現れて
「もっと、癸亥の世界のひととなりなさい」と言われたのだなーと
じーんとかみしめました。

 

そこで次に気になるのが、「癸亥」の世界がなにか???
六十干支思想をひもとくと(安岡さんの本とか)それなりの説明はありますが、
タオセラピーは、一般化された概念以上の真実は、本人の小宇宙からひも解くことに価値を置いています。
タオセラピーでは、「エッセンスワーク」と称して、
古代中国の甲骨文字に描かれた「字源」を「小宇宙」につながる窓口として
心理ワークを行います。
「癸」の「字源」と、「亥」の「字源」と、私のなかの2つのエネルギーの指向性を重ね合わせたものが
<私だけの>「癸亥」世界への入り口となるのです。
その結果つかみとりましたものは、
「激しくしつこくこだわってアルチザンと化して、世界のすみずみにその思想をいきわたらせる」という類でありました。

 

感想はただひとこと。

 

がんばらないとねー。

 

コツコツ、どっしりのっしり歩く象のように、はたまた
じわじわと進んでいくために目の前に集中している亀のように。

 

肝に銘じたわけなのでした。

 

身を引き締めて、今日はこの辺で。

 

おやすみなさい。

 

明日も確かな一歩でありますように。