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2011年8月17日水曜日

自己への「愛」がなければ私は無に等しい。



















みなさん、こんばんは。


苦しみにもがくとき、

私たちは何もかもが暗黒や暗闇に感じられるかもしれません。

ともすると、周囲の何もかもが、

自分に向かって矢を放ってきているように感じるかもしれません。

そんな苦しみの味を、私も「これでもか」「これでもか」と

つきつけられてきた過去をもっています。


「天はなぜかくもいじわるなのだろう?」

「前世という言葉があるなら、私は過去世において
よっぽど悪さをしたのではないだろうか?」

と、目と耳と、この肉体が本当に自分のものであるのかと

疑いたくなるほど、辛抱たまらない日々がどれだけ長いことあったでしょうか。


この理由は、今ならわかります。

「愛」がなかったのです。
「愛」を見失ったのです。
「自己」への。

そして、それはどうすることもできない流れでした。
今、過去をふりかえって、どこをどのようにしたところで、
「自己」を見失うよりほかのない、何もかもだったと思います。

「自己」への「愛」を見つけだすことができるだけの要因が
私の運命として用意されていませんでした。



とことん「苦しむ」ということのほかには。


実はこの「苦しむ」ということこそが、
「愛」の扉を開くための、大事なカギとなるわけですが、
そのことについては、またこんどお話します。

きょうは「愛」についてフォーカスしたいので。


さらに、ここで大事なのは「自我」ではなくて、
「自己」への愛である、という点です。

***

「自我」と「自己」ってどうちがうの?

簡単に説明するなら、

「自我」は日常の現実で掌握できている自分。

「自己」は、自我感のない自分です。
「え?それも自分?」と思われるような部分であり、
無意識世界がうつしだしてくる、魂の自分です。
深い、深い、自分です。

***


運や縁はひとさまざまです。
ほかの誰かと異なる運と縁であるのは、しごく自然なことです。
たとえば、私は不思議なぐらい「不動産運」には恵まれます。
「健康運」も上々です。
さして努力せずとも、勝手についてくる部分というのは、誰にでもないわけではないでしょう。


某雑誌で、長谷川潤さんというきれいなモデルさんが
結婚したことで「自信や勇気」を得たようなことを
コメントなさっていました。
彼女は人生前半において家庭運には恵まれなかったようなことも書いてありました。
同時に、結婚運や伴侶運はあったのかもしれませんね。

これはまったくひとによってさまざまです。

だからうっかり私なども「自信や勇気」を
恋愛や結婚の伴侶から得るものなのかと、

自分だけのパターンを知ることもなく、

ひとの恵まれたパターンをうらやんで、

「自分もそうなりたーい」「それが幸せのカギでしょー」と信じてしまっていましたが

人生がだいぶ展開されてはじめて、気づいたのでした。

あれ?私の場合は、
外の人間からは
「自信や勇気」って手に入らないくちでは?

もちろん、外の人間から「自信や勇気」を補うことが向いているひともいます。

ここでいいたいのは、

そのかただけの重要な
自己のパターンが存在するということですし、

さらには、

その自分だけの「自己のパターン」を見つけ出すことができると、

「自己愛」は深まり、

胸をはって他者を愛することもできるようになるわけですね。

このあたりは、コフートの心理学でも

詳しく主張されている大事なポイントです。



少なくとも人生の後半になるころには、あるいはそれまでに、

私たちは多くのひとが

「自己愛」について見つめ直す必要がでてくる

「驚くような出来事」に直面化するというかたちで。

身体症状しかり、人間関係しかり、仕事の問題しかり、
経済的な問題しかり、嗜癖しかり、精神におけるなんらかの障害しかり。



ですが、
もしもひとたび「自己」への「愛」が深まったなら、

私たちは強靭になります。



新約聖書のコリント人への第一の手紙。第十三章。

有名な「愛」の詩をごぞんじでしょうか?

結婚の挙式でも、神父様が朗読なさることもたくさんありますから、

みなさまも耳にされたことは一度や二度はあるのではないでしょうか。


私が強調したいのは、赤い太字にしたポイントです。

「自己」への「愛」が成熟するときに、生じることです・・・。

「自己」への「愛」が存在するとき、
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」
ことができるようになるのです。


13-
たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
13-
たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
13-
たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
13-
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、
13-
不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
13-
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
13-
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
13-
愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
13-
なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
13-10
全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
13-11
わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった
13-12
わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。
13-13
このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。


▼下記サイトから引用しました。
http://bible.e-lesson1.com/1corinthians1-13.htm


じつは、私が今このブログを書きながらも

つくづく「自己」のなせる活動だよなあ、と
われながら感心するのです。

なぜなら、私はありがたいことに
朝の9時から夜の23時まで
わずか15分~30分の感覚をおいて
食事をとる時間もままならないなかで、
連続にてケースを請け負わせていただいています。

デビューしたてのころの私でしたら、
とっとと今頃は、夢のなかでしょう。
「ひゃ~、疲労困憊」といって。

ですがすごいことに、きょうの私は疲労がないのです。
アドレナリンがでまくっているというのも、ちょっと違うかんじ。
寝ようと思えば今すぐにでも寝ることはできますが、

私の「自己」がこのテーマで表現したがっているのを
感知したので、それに従って書いているだけだから、
いたって快適、スムースなのです。

まさに、上の「愛」の章が述べていることと
一緒の状態が起きているのです!


ユングのいう「自己」は「魂」の領域ですし、
さらには、アインシュタイン的にいうなら「神」の領域です。

新約聖書とてらしあわせてみても、

いかに「自己」とつながるための取り組みが

私たちとって重要であることか!

教会は、あなたの内側にあります。
(・・・ああ、こんなことをいうから、
私はもしかすると前世に火あぶりの刑にあったのかもしれない。苦笑)

そして、あなただけの「神」や「自己」とつながることのために、

深い取り組みとしての心理セッションが存在することを、

一人でも多くの方に知っていただきたい。

それが私の切なる願いです。


では、そろそろおやすみなさい。
明日もあります。

みなさまもお盆休み明けのお仕事、がんばってください☆

明日は「苦しみがある理由」と題してお届けします。

お楽しみに。

良い夢を!

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