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2014年5月3日土曜日

不幸なきんちゃんの話~まわりを幸せにするために不幸を背負う運命

 
 
ひとの悩みはつきない。
 
上を見ればきりはない。
 
悩みを排除するための希望ではなく
 
悩みとどろんこになって闘うなかから生まれる現実にこそ
 
生きることの味わい奥深く
 
光のかけらをみる。
 
これが実は成熟した(マチュアな)精神の方向性だ。
 
不幸なきんちゃんの話をしたい。
 
 
 
きんちゃんには年子の子供が3人いた。
 
けれどもじつは3人目の子がおなかにいるとき
夫にずっと憧れてたという女がでてきて
浮気沙汰になり、裁判つきの離婚さわぎとなった。
 
妹を守らんとするお姉ちゃんに
力づくで子供たちと生き別れにさせられ
慰謝料はもらって夫とも別れた。
 
戦後のただなかだったため、サバイバルはもう大変。
お姉ちゃんの命令で
職を得るためと、学校の先生になる試験を受けさせられた。
 
生き別れた子供への煩悩に苦しみ
泣く泣く学びながら
かろうじて生きながらえるための職をえることにはこぎつけた。
 
それから数年後
大きくなった子供のようすをみにこっそりとでかけると。
 
長男は猫のように隠れておびえてこっちをみる。
長女は、まさか実の親とは知らずに近づいてくれた。
 
さらに数年後、
 
長男が家出してやってくる。
 
継母に近所の大きな池に連れて行かれて
「ココに飛び込め」と言われたという。
 
食べ物もろくにあてがわれなかったのか
顔立ちもげっそりとしていたという。
 
まあ、そんなこんな、
それでも
お互いに苦しみのなかを
離れ離れに生きていかなくてはならなかった。
 
きんちゃんが、息子と再会するのは
息子が60をすぎてのこと。
 
きんちゃんは働いたお金を
子供への償いにしようと
こつこつと貯めていた。
 
息子はそれでも立派に育ち
公務員となって出世もした。
 
そしてきんちゃんはやがて盲目のひととなり
足も悪く、介護ホームで亡くなっていく。
 
きんちゃんはいつも口癖だった。
「私は不幸だ、不幸だ」
 
義理の兄は
「きんちゃんは不幸だ不幸だというから不幸なんだ」
 
ともっともそうなことをいって非難した。
 
ところが、大自然の意図はべつのところにあった。
 
先祖の因縁を一身に受け止めるために生まれてきたという。
 
よって、きんちゃんが不幸でいてくれることで
 
まわりの家族が幸せを保てるというのだ。
 
 
 
じつはこれは私の大叔母の話。
 
大自然の意図というのは
「算命学」がしめす「占技」のひとつにある傾向のこと。
 
もっとも
タオセラピストの私の立場からすれば
その非常に厳しいポジションも
本人に縁と意欲があれば、もう少し手立てはあっただろうと
想像されて、
私が大人になるスピードがもっと早かったらよかったのにねと
今は亡きおばさんをしのぶ。
 
実家の隣に住んでいたおばさんは
道で私にあうたび
目を細めてかほそい声で
 
「まりちゃん(私の子供時代の名前)、大きくなったね。
おばちゃんは、もう弱っちゃったよ」
 
心理の世界を知らなかった子供の私は
「おばちゃん、そんなことないよ」
 
としか声をかけてあげられなかった。
 
可哀そうなことをしたと思う。
 
今の私なら
「そうか、おばちゃん、弱っちゃったかぁ。寂しいなあ」
 
と、その老いのプロセスをともに相憐れむだろう。
 
生き延びるためとはいえ
おばさんの心がその実、求めていたのは
ふっと軽くなってほっとあったかい気持ちを
味わえる瞬間だったのではないだろうか。
 
子供たちに現実的に再会することも
指折り過ぎ行く日を数えて夢見る対象だったろうけど
 
そこにいたるまでのプロセスで
もう少しでもその気持ちに寄り添ってあげることのできるひとが
そばにいたならば
 
盲目になるスピードも
足が悪くなるスピードも
もう少しゆるめることができたかもしれない。
 
 
おばさんのストーリーから
生きることについて
私は学ぶところが多く
ブログでもシェアしたかった。
 
生きるということは何なのか?
愛とは何なのか?
 
私の答えは
「与えられた所有エネルギーの完全燃焼」と答える。
 
この中に神がこっそりと隠し埋めてくれている
宝箱が存在する。
 
不幸なきんちゃんの魂のお話は
私の中でも生きている。
元型として。
 
きんちゃんの肉体はそれでは満足しなかったかもしれない。
自分の欲と煩悩を求めたかもしれない。
 
でも神はそれを与えなかった。
60年の試練をこえたときに
かすかにその光を見せはしたが
きんちゃんはぐずぐず嘆く傾向の強い性格だった。
 
でも不思議なのは
 
きんちゃんの哀愁は
ひとの愛情を誘うものがあるように
私には思う。
 
実際に、学校の生徒さんにはなつかれた。
 
 
 
きんちゃんは、一生懸命に、自分らしく、生きた。
そして、まわりも、その生き様から学ぶものがたくさんあった。
 
神が与えた命をまっとうしたといえないわけがない。
 
おばちゃんの心細そうな表情が目に浮かぶ。
 
年月のタイミングはずれてしまったが
 
私はおばちゃんの魂を自分のサロンに招いて
 
いっぱいいっぱい対話をしてあげたい。
 
合掌。

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