40歳を過ぎて色恋のことを述べるのは
クールな私としてはそれほど好みではないのですが
私のなかの「もっともピュアなパート」
(言い換えるなら、一番恥ずかしいハート)
はいつも夢を見ています。
「私の好きなあの人は今頃どうしているかしら?
目に見えない風にのってこの気持ちは届いているかしら?
会いたいな。会いたいな。
会ったら一番に何て言おう?
どんな顔を見せよう?」
でも、ときどき、わからなくなるのです。
私が感じているこの気持ちは、
現実の肉体ある好きな人にはもちろんですが
深層心理的な根源をたどると
行き着くのは「魂の恋人」のところ。
長いこと認めたくなかったけれども
私の「魂の恋人」は
「この世にはいない、亡き兄」であることも
何度もワークを通じて浮上してきます。
私は「亡き兄」に相当愛されているのでしょうか。
いや、わかりません。
なぜなら、私の兄が亡くなったのは
母のお腹の中でのことですから。
私は一度も会ったことがないのです。
なのに、物心ついたときから、ずっと
兄の存在を探し求めていました。
そのあたりから
私はちょっとおかしいんじゃないか、と
ずっと思っていました。
でも、おかしいわけでもない、のです。
タオセラピーでひもとくと
数理的にそれは解明できるのですよ!
***
そして自己を掘り下げてわかったことは
私の恋愛が実を結ぶかどうかは、
私の「亡き兄」のゴーストにかかっているのだ、ということ。
そのためにも私はいつも心を「亡き兄」とひとつにしているのです。
かつての私は
「亡き兄」の面影を、現実で出会う男性たちに映し出しては
恋愛をくりかえしていたのですけれども。
「亡き兄」は、認めてくれず、関係を破壊することを繰り返してきました。
なぜなら「亡き兄」は
私の「心のなか」にずっと潜んでいたからです。
「亡き兄」は、私にふりむいてもらいたがっていたのでした。
「自分の心の内側に目を向けて」と。
あらゆるプロセスをへて私は
今こうしている瞬間も、私は「亡き兄」を感じられるようになりました。
そして馳せられてくる思いは、
「もしも肉体ある兄に会うことができたなら」という心です。
「姿、形を、みたい」「手に手を取りたい」。
私はいつも夢見ているわけなのですね。
(実際に兄妹関係のあるケースをやまほど知っていますから
兄妹がそんなに美なるものばかりでもないことは私は熟知しています)
「今頃どうしているのかしら?」と。
見果てぬ兄への思いを重ね合わせて。
そうそう、だから、私が現実のこの時間世界で
好きになった人というのはラッキーな方だと私は思います。
なぜなら、私は意識的にも無意識的にも
その関係性に「亡き兄」との関係を重ね合わせるため
「永遠に美であるもの」にしようとするからですね。
私は兄の存在を知らないので、ただの幻想であり、
ただの絵に描いた夢でしかないために、
永遠に相手のことを慈しむでありましょうから。
ですから逆をいえば、私と相性のいい方というのは
「非現実的」な人間であることは確かでありましょう。
「亡き兄」すなわち「この世に存在しないような空気感」というのを
生涯放ち続けられるような方でないと。
というわけです。
***
その一方で、私の好きな人は
幼少のころに母親を失った人でして
彼曰く「母親を覚えていない」というのですが
だからこそ!
私がこの人と会うときはいつも
彼のお母さんの気にチューニングして
彼のゴーストロールを演じる心で
向き合うようにしているのです。
メールするときも、ハガキをかくときもそう。
かなり高度なテクニックではありますが、
大切な人に気を合わせたいときの
私のおすすめのアプローチです。
エネルギーは常に、陰と陽の流動性および
ダイナミズムを表現しようとするからです。
もう少し別の言い方をするなら
「見失われたエネルギーをなんらかの形で補おうとする傾向がある」ことを
逆手にとって、積極的に関係性に参加するとき
その関係性は「円」を描いていくーーー
つまり「まとまりをえていく」というわけです。
なんのこっちゃ?
とわかりづいらいかもしれませんね。
こういうのは実際に体験のなかで味わっていただくのが
私のおすすめです。
もしも気になるようでしたらぜひ
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