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2014年2月28日金曜日

見失われた「大好き」の記憶を癒したくて

きょうはものすごく胸が苦しかったんです。

その正体は?

ていねいに胸の苦しさに息を吹き込みながら
向き合うと……

「大好き」なひとへの気持ちでいっぱいになって
多忙つづきのせいでちっとも会える状況にないことへの
うっぷんが私をナーバスにさせていたのでした。

だからといって、そのうっぷんは、
そのひとに向ければいいわけでもないことを
200も知っていて、
これはどうしたものかとさらにインナーワークを続けていたら
浮かび上がってきたのが、私の「見失われた記憶」だったのでした。

「見失われた記憶」にもぜひ愛を!

はたせないままやるせなさを抱えて、
いまもあなたとともにある、大切な一部始終
ていねいに受け止めてあげませんか?

私はそんな「過去の私」の浮かばれなかった気持ちを
満たしてあげるために
きょうは、ポエムをまとめました。
あなたにも似たような物語があるかもしれない、そんな形にして。





















遠い過去の記憶

今も息づいている

「今ここが大事」とか

「未来を見つめて」とか

ひとはいうかもしれない

それでも

私には

遠いあの日の輝きを

上回るほどの

美しいものはない


忘れられない遠い日の残像

あなたは

「もう覚えていない」

というかもしれないけど

私には

永遠の一瞬

あの日から

今までも

そしてこれからも

ずっとともに生きていく


「俺のことをどう思っているの?」

そうたずねてくれたことが

あなたの最大だったと

推し量ることができなくて

素直になれなかった

幼かった私

本当は

「大好き」

と言いたかったのに

「大事なひと」

としか答えることができなかった

それでも喜んでくれた

あなたの笑顔を忘れられなくて


今もこうして言葉を探している



私が幼かったように

あなたも幼かったのか

複雑なこころの動きをみせて

あなたは離れていった

あなたにもあなたの事情があることを

たくさん理解しているつもりでも

本当に伝えたかった言葉と

ちぐはぐの答えしかできなかったことを

ずっと後悔している

20年近くたとうとしている今も

過去のはたせなかった想い

「大好き」

というセリフ

ゴーストのように

ぐるぐるいくども

頭のなかをこだまする

あのタイミングでは

あのセリフでよかった

あのタイミングで

「大好き」と

もしも言うことができていたら


その関係は本当に壊れていて

こうして時を隔てて


再会することもなかっただろう


それを回避するため

私の無意識が

「大事なひと」

というセリフを

インスピレーションで選んだ

納得と満足があるにもかかわらず

私の情動はトルネードのように

叫びをあげる

「大好き!!」

理屈じゃない

何度吟味しても

今では答えはひとつ

「あなたは、私そのものだから。

私は、あなたそのものだから」

あなたが私の望んでいるままの

わかりやすい反応を

私に投げかけてくれるひとでないことは

100も承知なのに

それでも魂が主張する

「それこそが、私だ」と。

時間と空間を超えても

引き寄せあう

魂のそのひと

何度別れても

帰り着くのは

私の思うが儘ではなく

私自身(神が求める姿)をうつしだす

あなたのもとしかない

それこそが

私があなたのあるままを

愛する最大の理由

目の前にふたたび現れた

あなたは

遠い日の記憶のなかの

あなたとは違う

そう思うようにつとめても


「きみは変わらない」

と、言われるたび


おさえこんできた

「大好き」

という気持ち

「言わなくてもわかるでしょう?」
「言わなくてもわかってよ」

という気持ちの下で
ねじふせてきた
「大好き」

という気持ち

はがれかけたかさぶたのように

うずく

「変わらない」私を

求められているような

気がするせいもあるのかもしれない


天上の星々のように

無数の人間が生まれては死に

期を一にして偶然にもふれあう人同士だけでも

限られている

さらに

「私自身と同じ形のこころ(元型)」を
みることのできるひとは

どれほどの確率でめぐりあえるというのだろう

行き場を失ったまま

20年近くも漂流し続けてきた

「大好き」

という気持ち

あなたが喜ぶ形で届けたい


あなたを目の前にしても

きちんと正直で

素直な私でいられますように


あなたの目に映る

「変わらない」私とは

永遠の私のことだから

2014年2月27日木曜日

できない。許したら、できた。~千住博さんの街中アートに遭遇して

できない。
 
思い通りに動けない。
 
そんな日があってもいい
 
それもまた
 
許す
 
いいことは
 
そのあと
 
やってくる
 
 
***
 
きょうはどのようなことを
ブログに書こうかと
日中、あいた時間に、浮かんできた言葉を
メモ書きしていたのですけど
 
きょうはうまくまとまりません。
 
私は困ったことがあると
「インナーワーク」をさっと試みて
「内なる神」の領域にアクセスして
ご宣託(?)をいただくのですが
 
夕方の段階で
 
「ユニクロでお買いものしておいで~」
 
との許可がでました。
 
文章作業のお仕事はさっさと放棄したのでした。
 
実はこのところ私の嗜好性は
激しい勢いですすんでおりまして
 
昨年の終わりから
 
スワロフスキー
ルイ・ヴィトン
 
と私の凝り性・はまり性が進んできたと思ったら
 
突如、ユニクロにフラートされまくり!
 
いまさらか?
 
驚きながら、フラート現象から、内なる神の意図を探るのを
趣味&生業としております身です。
 
分析すると、浮かび上がってくるのは、私のメジャー志向でした。
 
ルイ・ヴィトンの直後から
1960年代に算命学を占星術化した、故・高尾義政氏の
言葉にもフラートされたため
国会図書館で「原典算命学大系」という分厚い全11巻を
コピーして、PCのノートに平打ちしながら、
その精神世界を猛勉強することがはじまったのでしたが、
 
高尾先生のスピリットは
私に足りない「名誉」指向。
(それは星を出すとわかる)
 
それをせっせと模写しながらチャージしてたら
 
ユニクロとワークすることになったわけでした。
 
ある意味ユニクロは大衆向けのロープライスブランド。
なぜ?と面白く不思議がってたのですが、
 
どう考えても、「名誉」にもつながる大衆指向だよなあというのが私の自己分析です。
 
 
それは私の文章力の研鑽にも大事な精神だなあと反省するのです。
ともすると私はひとりよがりの文章でもきにしないところがありますからね。
 
「名誉」というと、ルイ・ヴィトンもセレブブランドですから、それでもよかったのですが
ルイ・ヴィトンのバッグを10年ぶりに購入してみて問題を感じたのは
 
「お、おもい・・・」
 
私には存在エネルギーが重すぎたのですね。
1つぐらいならいいけど、ぜんぶはそろえられない。(金銭的にもですけどw)
 
心理療法家としての私の理想の姿は、
白いTシャツにジーパンだからです。
 
現世の装飾に対するこだわりがとれた境地、
精神世界に存在する
「真実」の濃密さに最高・最強のラグジュアリーを
感じられる心を持ったひとに
許された選択のように
私には思えるからです。
 
だから、ユニクロへのフラート現象は、私には
自分のこころがさらに軽くシンプルになったのではないかと
想像できて、とてもうれしい出来事でした。
 

 
 
さらにとりわけ私が今気に入っている現象は
 
BLACK&WHITE
 
 
へのフラートでもあります。
 
ユニクロで今せっせと買い揃えているのは
黒が80%、ネイビーが10%、グレーが5%、白が5%。
 
これは私のなかでのコーディネイトバランスですが
 
気持ち的には
 
BLACK&WHITE 
 
に魅せられているからの配分です。
 
 
 
 
 それは私のなかで、
 
真っ黒な宇宙と
その大宇宙にきらめく
白い宝石のような星の輝き
 
を意味しており、
 
そのように自己の存在を想像すると
 
にやにや
 
とってもゴキゲンなのです。
 
ずっと、この境地を目指して、こんこんと
深層心理の分析トレーニングをくりかえしてきているといっても
過言ではありません。
 
生身の肉体を持った人間としての私は
広大な宇宙空間という精神に
なかなか同化させることに苦労しているからです。
 
やっとだ~。
わーい。
 
それは数日前に
ブログでもお話しました
「内なる少女」との同化が
深まったこととも関係しているのでしょう。
 
***
 
そして、お買いものから戻る地下鉄の構内、
 
久しぶりにとおったら
 
こんなアートが壁に!!!
 
さっさと脇目も振らずに歩いていたのですが
 
この壁画を抜けたすぐにあった
パネルに目が偶然なのか必然なのかとまりました。
 
 


 
 
 
 おや!千住博さんの作品が、このような場所に!?
 
 
驚いて、文章に目を通したら、
 
私の好きな世界を表現なさっていたので
 
感動してしまいまして、
 
あわててアートに目をやると
 
やっぱり感動です。
 
しかも、なんて共時的!
 
BLACK&WHITE!!!!
 
自分に今訪れているプロセスに
 
うるうるしてしまいました。
 
しつこいですけど
 
ずっと待ちわびて望んでいた精神世界だからです。
 
 
 
みなさまには、この絵がどのように見えるでしょうか???
 
 
写真では、この絵の魅力は残念ながらわかりにくいのですが。
 
 
まるで本当に滝が勢いよく水しぶきを上げているように見えますよね。
 
写真じゃないのです。
 
絵なのです。
 
ステキ☆
 
 
私はこれを眺めた後、道々反すうしました。
 
 
「私にこの絵はどのように見えるだろう?」
 
 
浮かんできた言葉は
 
「無数の魂。浮かんでは消え、消えては浮かぶ。
 
社会を生きるすべてのひとの命のどよめき。叫び。歌声。歓喜。
 
あなたは、いまこの瞬間を、どのように生きるのか?」
 
深い問いかけに迫られたのでした。
 
千住博さんの芸術魂に感謝することこのうえありません。
 
日本も
こうして日常のさりげない空間で
アートの精神にふれることができるようになったというのは
この方の社会の中で闘っていらした努力の結晶なのではないかと
想像しました。
 
 
千住さん兄弟のみなさん、
本当に素晴らしいです。
尊敬の念でいっぱいです。
 
私も私にできる最大を頑張りたい。
 
胸に誓い、
 
「私は私でいいのだ」
 
何度も自分に言い聞かせたのでした。
 
***
 
あら?
 
結果的にブログを書いてしまいましたね。
 
私の「内なるスピリット」は
 
やっぱりどこまでいっても
 
BLACK&WHITE
 
を私につづらせたかったんだなあ、と
 
嬉しい気持ち。
 
幸せをかみしめて眠りたいと思います。
 
おやすみなさい。
 
またあした。
 
読んでくださって
 
ありがとうございます。
 

2014年2月26日水曜日

大変じゃない人間はいない。頑張ってきた自分をたくさん褒めて

私が人生と心と精神と身体の相談を
日々のなりわいとしているせいなのかもしれませんが

無意識世界を加味するなら

大変じゃない人間はいないというのが、ひとつの前提にあります。

それだけに、過去から現在にいたるまで
あなたのなにもかもをもっとたくさん評価してほしい。

どんなに評価しても、評価しすぎることはない。

私はそう思います。

戦前から昭和の人間は、「自分を甘やかしている」と非難するかもしれませんが、

私の持論では、時代が違う!社会の構造も違う!

今は、自らが自らを育てないと、競争に負けるような世界となっているように
私の目にはうつります。

自らが自らを育てるというのは、
自分で、自分の心を守って、自分の自我を成長させるということ。

過去の大家族制度で守られていた自我が
社会のしくみから逆に崩壊させられてしまっているために
不可欠の個人の大事な取り組みのひとつではないかというのが、
私の考えです。

そして、自らが自らを育てるために
「自己愛」を育てることが大事なテーマであり、
そのために大切なことは
己が何を求めているのか、社会の価値観とは別のところで、
という観点をもつこと
そして、自ら、自らをほめる達人になること。

現代の社会は無意識に壊れた自己愛が氾濫しているように
私の目にはうつります。

成熟した自己愛を身に着けるには、
今や自分で自分を最大にほめないことには
周囲のひとも自分の問題で手いっぱいであるため
相手を正当にほめたり、評価したりしているゆとりを失っていますから。
自分のことでいっぱいのひとがあふれているのですね。
(私もそのひとりでもあるのですが)

で、ブログを読んでくださっているみなさんには
「うぬぼれ」ではなく、
「等身大の自分大好き」とか「自分の頑張りを慈しめる自分褒め上手」を
目指していただけたら、とてもうれしくおもいます。

で、きょう出てきたポエムはこちら。




生きていると、いろいろなできごとに遭遇する。

生きていると、いろいろな気持ちに直面する。

生きることというのは、ひとすじ縄にはいかない。

なにもかもぜんぶ思った通りに現実が動いていくアイテムを

ドラえもんのポケットから出してくれたらいいのにね。

あいにく、そうもいかない。

生きるって、簡単さ。

かっこつけたいひとは、そういうかもしれないけど

肩肘はってなーい?

そういわずにいられないこころそのものを

抱きとめてあげたくなる。
心の片隅でこらえてきた
心の奥底にねじふせてきた
あなたの「涙」をかわりに流してあげる。

生きるって、難しいよ。

これが自然だと私は思う。


人間関係のこと
家族のこと
お金のこと
名声のこと
キャリアのこと
健康のこと
愛情のこと
性欲のこと
子供のこと

見失われた
自己のもろもろのために
「愛が足りない!」
「もっと私を見て!」
と無意識が叫びだす。

知らず知らずのうちに
受けとめることができなくなった
知情意が
バランスを逸する。

やれ急げ。
やれ完璧たれ。
やれトップたれ。
やれ結果だせ。
やれあのひとはあんなにできているのに。
やれすべてを手に入れないとね。
やれ人がうらやむようでないとね。

騒ぎ出した無意識は
私たちを駆り立てるように追い込んでいく。

おまけに、その騒ぎ出した無意識に
こらえきれなくなった
下層の無意識が
こんどはさらにもっと訴えてくる。

やめようよ。
無理だよ。
できない。
堪忍して。
やりすぎ!

理性は情も、精神もどこかにかなぐりすてて
合理で、世界を押し切ろうとするせいで、

ある日突然、バクハツが起きる。

ああ、なんてアンバランスなひとの姿。

生きるとは、なぜかくも難しいのだろう。

あいつが悪い。
こいつが悪い。

そんなに簡単なものだろうか?

生きることはけして単純じゃない。

研ぎ澄まされた感性と
冷静で高い打点からのまなざしと
ひととの関係を良好にするための、ふくよかで豊かな情緒と
柔軟な思考と発想と
おのれのあるままに寛容たる、大きな心と
直感からのギフトでもある創造性と
筋の通った道理と思想
さらに求められるは
「あなたはどうしたいか?」
「あなたはどう思うか?」
独自の立場と見解

ここに、現実的には
手足を動かして労働にいそしみ
「隣の誰かの喜びのもと」を与えるなかから
衣食住をあつらえるというのだから!!

求められるのは
なんて
たゆみない努力と忍耐
根気と意欲と
授かった命とプロセスを
信じる気持ち

おまけに
時間と肉体という
小さなハリの穴のように
非常に限られた枠に
私のスピリット(夢見の世界)という
宇宙空間にも似た
無限エネルギーをおさめないと
私はストレスいっぱいになってしまうのだから!



生きるとはなんとまあ
すばらしくもよくできた
研鑽の道

今この瞬間まで
生きることを続けてこれたこと

それだけでどれだけすごいことか!!!

血と汗と涙の結晶

がんばってきたあなたしか

私には見えない

だから

たくさんねぎらおう
たくさんいたわろう
たくさんほめよう
たくさんなぐさめよう
たくさん安心させてあげよう

よくやってきたね。
よくやってきたね。
どれだけ大変だったことでしょうか。
本当にすごく大変だったでしょう?
無理しなくていいのよ。
たまにはしっかりと羽を休めましょう。
いっぱいいっぱいほめてあげたい。
すごくがんばってきた!

もしかすると、
記憶がなくなるほど頑張りすぎたせいで
言葉にはなかなかできないかもしれないけど
感受性がひとよりちょっと強く生まれついてしまった私だったら
あなたのプロセスに「ひーひー」といううめき声を加えてしまうかもしれない。

本当によくがんばってきた。
本当によくがんばってきた。

ほら!
あれも!
これも!
それも!
また、それも!

あなたが積み上げてきたことは
たくさんあるでしょう。
あなたがこらえてきたことは

あんなことも
こんなことも

やまほどあるでしょう。

ぜんぶすごいこと
ぜんぶすごいこと

いっぱいほめてあげたい
いっぱいほめてあげて

あなた自身のことを
もっと もっと

きょうはどうか少しでも
身体のこわばりがゆるんで
お休みになりますように

夜空の星たちが、あなたの健やかな
寝顔をみて微笑んでくれている

2014年2月25日火曜日

ピュアな愛、あるままへの愛、表現して生きていますか?~表現の神様に愛をこめて

「私たちはみな表現をして生きている」と

昔あるところの世界的に有名な心理学者が

そういった

どのような表しかた、現象のでかた、

巻き込まれていくできごと、そのたもろもろであっても

私たちの【存在】の方向性のひとつである

「表現したい」指向性の結果にすぎない

多くのひとは「表現する」ときくと

何か特別な作品を創造することを
想像するかもしれないが

じつは必ずしもそうでもない

特別な作品であってもそうでなくても

「どのように24時間を使っているか」

そのすべてが、その命、独自の表現なのである

そう考えてみると、どうだろうか?

しかも

その背後で動いているこころは

いずれも

「私を認めてほしい」
「私をわかってほしい」
「私は許されたい」
「私は注目されたい」など

すべての表現は
「愛を求め補おうとする」物語を
輝かせるためにあって

現象そのものに
大きな必要性が
あるわけでもないことのほうが
しょっちゅう


さらに

どのような表現であっても

それがまわりから悪しきと評価されようが

金メダル級と絶賛されようが

その根っこにある思い(元型)には

それほど大きな差はないのではないか

どのような表現も

「愛のドラマ」を伝えようとしている


「ねえ、私はこれほどまでに世界を愛しているのです」

「ねえ、私をどうか素晴らしいと愛してください」

このふたつの思いのどちらかが優れていて

どちらかが劣っているということもない

このどちらもが人間としての
すこぶる自然なハートの動き

どちらもほめたたえるべき、美しい、命のほとばしりで

同時に忘れてはならない

自然界にあるものとして……

「愛している」
「愛してほしい」

その想いの反対側にあるものを

この想いを支える大事なこころの世界

「憎んでいる」
「恨んでいる」
「大嫌い」


自覚的に
意欲的に

「表現して生きる」ことを望むのであれば

憎しみや恨みや嫌悪の想いも

慈しみ憐み大事に抱っこできるようになるといい

醜いと思われるものを
醜いままに

幼子の髪をそっとなでるように
優しく慈しみ、憐れむといい

腹からの力は
「すべて」を愛せるときに
宿される

人間のあるまま
人間の限り
人間の混沌
人間の豊かさ
人間の機知

どれひとつとっても
あなたの力にならないものはない

そのすべてが「表現」されることを
待っている

あの真っ黒色をした
夜空の向こうで
きらりと瞬く白い星たちが

何億光年もの昔から

あなたにこそ
「私」を表現してほしいのです、と

だから。

天高らかに
あるままを羽ばたかせよう

歓喜のラッパが
ファンファーレの高鳴りを轟かせて

あなたを祝福するでしょう

恐れなくていい
怖がらなくていい

その表現が
あなたの純粋なところからきていれば

現実を生きるための
なにもかもは
何億光年もはるかかなたの星々が
そっとあなたの枕元に
用意してくれるから

ゆっくり安らかに
眠りましょう

明日になれば
また新しい風がやってくる

あなたは
この大空の
この大海原の
この広大な大地の
すべてを愛せるか?

あなたの「表現への愛」が
奇跡を運んでくれる

もしも
「表現できない!」
そんな苦しみの中にいるのであれば
表現できない魂にも
愛のまきをくべてあげましょう
どんなにかすかなささやきも
私は見逃さないで確かに受け止めながら
見守っている

だいじょうぶよ、
あなたは今「表現できない!」という一瞬を
表現しているのだから、と

時がくればちゃんと
なされるべきことは
なされるでしょうから

だいじょうぶよ
一生懸命に「表現できない!」ことを
表現したおしなさい

風が次の旅先を告げてくれるときを
待ちましょう

2014年2月24日月曜日

運命の過ちが許される日を待ちわびて

「どうして私はもっと早く自分自身が進むべき方向を

見つけられなかったのだろうか?」


この苦しみは

経験したことのあるものにしかわからないもの

理知と一般論ではどうすることもできない

人間の深みと神秘

他の誰かの例にはあてはめられない

道なき道だから

暗闇のなか手さぐりで

迷路のおわりを求めつづける


古きからの叡智に身を寄せて

等身大のおのれの限りを引き受ける覚悟も

腹にすえる


挑戦してできること

挑戦してもできないこと

そのどちらも大切な生きたあかしには違いないけれど

一度きりの人生

限られた時のなか

読むことのできる本の数に限りがあるように

つきあうことのできる人間とそのやりとりの数もしれている


無限に開かれた選択肢があふれかえるせいで

ややもすると波にのみこまれるように

自分を見失いやすい

自由という、いまの時代

的をしぼりこまなければ

おのれを見極めなければ

「永遠の命」の目的を達した

充足にあずかることはない

運命からつきつけられるテーゼは

どんなときも

「私は何者か?」

過小評価でもなく

自我肥大でもなく

【等身大の私】を見つけ出し、いたわりながら

【等身大の私】の【最大】を生きたらいい

そのためには

「何を許したらいいのか?」

見つけ出すセンスと技術も要るわけだけど


生きることがどうして難しいかといえば

【私】という存在は

【私以上】の何かによって方向づけられようともしているからだ


大事なことは「結果」を後からついてくるものにすること

「結果」より重要なのは

「今この瞬間、【それ】をただ一筋に行動している」かどうか

とはいえ

【それ】を見つけ出すことも

それなりにハードな業(わざ)

【それ】を許可しつづけることが

私にどこまでできるだろうか?

【それ】は、私にとって間違いなく

恐怖の対象に見えるだろうから

これこそが神秘の法則

もしもあなたが【それ】を見つけたければ

「私が一番恐怖に感じていることは何か?」

と、その答えをヒントにするのも役に立つだろう

それでもどうにかこうにか

苦労の甲斐が実って

【それ】を見つけだし

「確かに【それ】こそが私の目標方向だ」

と認めることができたら

スタート台にやっと立てたと

祝杯をあげたいけど

そのつぎに問われるのは

一途にひたむきに

脇目もふらず

こんこんと

【それ】と向き合えているか?

「結果」ではなく「目標」に向かって

「行動」することができていれば上々


そして

ただ一途に願いつづける

神様、どうか私をお許しください

私が持てるありのままのすべてが

呪縛から解き放たれる日が

どうかやってきますように、と


そのために

持てる力のあるままを

おしみなくやつしてきた

できるかぎりの知恵をかきあつめてきた

いったいいつになれば【答え】に開かれるときがくるのだろう

等身大の自分自身をすべて慈しみながら

いまかいまか

待ちわびて

とても長い遠回りを何度もくりかえす

過去に選択した過ちと思われる道のりも

向うべき方向を見つけ出すために

不可欠

肯定的な過ちであり

幸福のステップのひとつだったのだと

微笑んで

午後の紅茶のひとときを味わう

空に浮かぶ雲のように生きたいと

想いを馳せる

その瞬間(とき)

空の雲がウィンクしながら

言った

「今この瞬間(とき)も

もう許されている世界だけどね☆」

そうかもしれない

そうじゃないかもしれない

そうだったらいい---

「そうなんだ」と信じることを選ぶと

身体のこわばりはゆるんでいった

2014年2月23日日曜日

デリケートでごめんあそばせ~夢をかなえたければ

 
子供のころから大人になっても、
私はずっと「繊細な自分」を受け容れることができませんでした。
 
 
繊細な感受性を受け容れられた経験も関係もなかったために
それをどのように扱ったらいいかがわからないまま
もてあまし、自分のまわりに、もれこぼれさせるばかりでした。
 
それを無自覚にもれこぼれさせればこぼれさすほど
周囲のひとには「考えすぎだ」と否定的に諭され、評価され
 
ますます自ら「繊細な自分は他者から受け容れられない」という
誤解の世界に身を沈めていったのでした。
 
その「繊細さ」に対して、まだ自我が固定化される前、幼少期のうちに
表現するステージを自ら与えることができればよかったのですが
 
そのようなチャンスに恵まれなかったし、
そういった「構造」が「精神の器として必要」という見識もなかったため
(当然、両親家族にもなかった)
 
この「受け入れられないままできた繊細な自分をいかに発見し
息を吹き返させるのか」というテーマをクリアにするため
 
私は自らの治療のために、師匠とのトレーニングを選択し
さらには、自ら論理的に組み立てた深層心理のワークの数々を
この数年、生み出し続けてきております。
 
その成果あって、ようやくその「繊細な自分」が産声をあげはじめたのが
今回のブログの刷新。
 
たくさんの方々の中にも存在する(それをユングは集合的無意識といいました)
「繊細な自分」の解放の一助にもなることを願って
 
昨晩、浮かんできた言葉をつづりました。

 
 















デリケートな私をもっと
大事にしてほしい

デリケートな私をもっと
いたわってほしい

デリケートで何が悪いの?

デリケートなことは、とても素晴らしいの!

私が秘めている

豊かな感性にあなたは怯えているのね

あなたを傷つけることなんて

微塵も考えちゃいないというのに


あなたが怯えているものはなーに?

あなたが怯えているのは
デリケートな私ではなく

本当は
もっと別の大切な何かだというのに



あなたには私の世界が理解できないだけ

私に見えている世界が

見えないことに

あなたは嫉妬しているのでしょう?



無知を恥じるよりも前に

未知をなじるなんて

弱虫のあかし

知らないの?


おびやかすから
ないがしろにするから

デリケートな私が

身を縮めて怯えて震えている


誰かこの子を助けてあげて!

どうして誰も叫んでくれないの?



無知を隠そうとしてかっこつけてばかり

早く気がついて!

ぜんぶメッキ

化けの皮はもうはがれている



あなたが怯えているのは

身を縮めて怯えている

あなた自身と向き合うことだということに


本当は

身を縮めて怯えている

あなた自身を救い出して守ってあげることこそ

世界を虹色に輝かせ

黄金色(こがねいろ)に光る夕焼け雲に

頬をそめる日への最短距離だということに



デリケートで何が悪いの?

デリケートな私こそが玉座のもの

デリケートな私をあがめて

大切にできなければ

夢を形にすることはできない

2014年2月22日土曜日

「自分の中心」をつかまえられなくて


私のクライアントのみなさまは本当によく頑張っていらっしゃいます。

私はよくこの「魂の道」につかざるをえないひとを、アスリートにたとえるのですが

真摯な努力、誠実な自己への姿勢なしに、そのプロセスと結果は切り拓かれません。

日々、そんなみなさまのたゆみない努力の行程を

受けとめさせていただき、ガイドさせていただくものとして。

はたまた、みなさまと同様に、魂の研鑽を余儀なくされた命を生きるものとしての

もがきと苦しみと受け容れを、促さなければならないものとして。

一遍の詩が浮かんできましたので、つづりました。























自分の中心をつかまえることが

どうしてこんなにも難しいのだろう。


私という存在を

あやつり人形のように

ひょいひょいと自在に動かすことができたら

こんなにも苦しむことはなかったろう。


私は何者か?



答えをみつける道のりはジグザグと入り組んでいる。

答えはシンプルなはずなのに、

やまほどある自分の声をどれも手なずけながら

ただひとつの中心に向かって

降り立つことに、どうしてこんなにやまほどもがき苦しむのだろうか。


自分の中心とひとつになるために------

世界のいたるところに投げ込んでしまった

【生き別れたおのれのかけら】をすべてかき集めてきた。


みずからの幻想にのみこまれないようにと

世界のなにもかもを、自分の外のものとして

自分との間に、緞帳をおろした。




内なる世界で、こだますべきは

自分の五感から発せられるものだけ。

そうしたくて

孤独の卵の中に

自ら入り込んでいった。



渇望してやまないくせに

それから目をそむけて逃げ出そうとする、

ややこしくて気難しい

やっかいなおのれに

自らくさびを打たねばならない。


真実のくさび。

愛のくさび。



追い込んで、追い込んで、

「おまえの夫(妻)は、それだ」

と、何度も、つきつける。



そんな一番大切なことが

どうして私たちにはかくも苦しくてたまらないのか。



本物の夫(妻)が

偉大すぎるから?

美しすぎるから?

まばゆすぎるから?


私たちは哀れにも

「そのひとは私には不釣り合いだ」

と自らをさげすんでは

また同じ苦しみの輪の中に立ち戻ろうとする。


本当に心底、一番愛を確かめあいたいのは

すぐ目の前に立ち現われた---

自らを追い込んでつきつけた---

その夫(妻)にほかならないというのに。


その夫(妻)とかたい絆をしっかりと結びあい
この世界をともにかけめぐること以上の

安らぎと幸福と充足は

天のはてまでも
地の底までも
探しぬいたとしても

けして見つけ出せるものではないのに。


あなたはいうだろう。

「あのカップルは幸せそうだ」
「あの夫婦は円満だ」


私は答える。

すべては死んだあとに、
その真価は明らかになるだろう、と。

無意識は
内なる神は
未知なる世界は
自然界は

どこまでも計り知れない未曾有だから。


外の世界にみえるものは
すべて、あなたのなかのもの。

それを受け容れることができるとき

真実の青い鳥が
頭上で
幸福の歌をさえずりはじめる。

真理に身をゆだねて信じぬくことのできたものだけに
許される、栄光。

すべてのひとの心臓に宿れる日が
近づきますように。

2014年2月21日金曜日

素直になれなくて。そんな私も愛し倒したら、待ちわびてた私に出会う~ブログのコンセプトを変えました。



 
半年ぶりのポストです。
 
うわー、本当に久しぶり!!
 
やっと、やっと、
 
「いちばん素直な私」をつかまえることができたかな?
 
***
 
私の苦しみは、書きたいのに、ちっとも書けないこと。
 
そりゃ、もちろん、愛のことも、マネーのことも、美貌のことも、
気に入らないことはたくさんあるけど、
これらぜんぶの問題の本質は
私の場合、
この「表現する」次元を高めることにずっとあって。
 
私の苦しみのパターンは、
 
理性や論理、理知、理屈、説明調、レポート調
 
で文章を書いていると、
 
身体が思い通りに動かなくなっていって
 
ことりと何も書く気がわかなくなってしまうことでした。
 
私の深層心理、うんと奥深い
「表現したいと魂の叫びをあげているパート」の
望みが
論理的な表現ではなくて、
愛の花園に包まれて、なにもかもを海と大地に溶かしてくれるような
ポエティックな表現だけに興味があるために、
 
主体者の私が理屈とか出来事を解説して
ぶいぶい飛ばしているのが
「自分らしさとして一致しない!」と悲鳴をあげるのですね。
 
***
 
もう、本当は、いまここで書いている書き出しも
気に食わない!
 
説明調にならざるをえないから。
 
でも、いまだけは。
 
いきなり、ブログのトーンが変わったら
 
ここまで書き上げてきたものと
 
これから書いていこうとするものとの
 
つながりがさっぱりわからなくなってしまうかな、と思って
ふんばって、わかりやすくまとめさせてもらいます。
 
***
 
私の「書けない」は
 
結局、うんと深い、いちばん大切な「私自身」「本当に繊細でちっちゃくていたいけなインナーチャイルド」と、実際の私との関係の問題からやってきていたのでした。
 
そのことは理屈ではやまほどわかっていたし、
 
これまでもさんざんインナーワークをくりかえして
 
まるで大奥のふすまを何枚も何枚も開きつづけるかのように
 
一歩一歩、奥のほうへ奥の方へと前進しつづけていたのでしたが
 
このところは「書けた!」と思うと
 
「それはもう書きたくない!」と
 
いっこうに軸が定まらなくて、これまた途方に暮れていたのでした。
 
おまけに
 
個人開業サロンを運営していて
わたしみたいに「ハウツー本を書いたり出版したりすることには興味がない」という
スピリットは、はっきりいって致命的。
 
ありがたいことに特に赤坂見附にうつってきてからの
5年間は、口コミを中心に
運営は成り立っているのですけど
 
私の運営上の精神的な安心材料としては
ちゃんと「文章つづって表現できているセラピストでいたい」のですね。
 
なぜか?
 
自分がどのようなセラピストなのか
ちゃんと自己発信、自己開示してたほうが
 
既存のクライアントの方にも
意思や指針を伝達しやすいし
 
ましてやほかのお知り合いをご紹介くださったときなどにも
どんな人間なのかがわかったほうが
安心しておいでいただきやすいじゃないですか。
 
陰陽五行の自然の法則を信じる私としても
 
愛とお金(土性)を支えるものが「伝達」「表現」(火性)であると
 
熟知しているのですし。
 
今おいでくださっているクライアントのみなさまに
安心して私が提供する技法世界に飛び込んでいただくためにも
 
私はもう本当に必死!!
 
寝ても覚めてもこの問題とこんこんと向き合い続けてます、
ずっと。特に2008年ぐらいから集中的に。
 
この大奥の大奥にまでたどりつくふすまったら
いったい何枚あれば気が済むの????
 
私は自分の精神のしくみに
途中何度いやけがさして途方にくれて
投げ出したくなったか知れやしれません。
 
それでも、運命にひきずられるようにして、
それをせずにはいられない私の魂のおかげで
 
何度も何度も、
大奥のふすまを開け続ける作業を
繰り返し続けたのでした。
 
ほとんど「カルマ?」と思いたくなるような
重度の!筋金入りの!
魂のテーマをひっさげて
その自己治療のためにこんこんと
精神世界を分析研究を重ねてたら
陰陽五行の世界観をどのように心理療法とつなぎあわせられるか
発見でき、タオセラピー開発と誕生につながり、
それがもとでさらなる私の表現したい願望が高まったから
 
人間とは本当に陰陽、コインの表と裏、
すべてが連関作用、相補作用のなかで
ダイナミズムを描きながら
個人の成長を促しているのだと
感動することしきりなのですけど。
 
***
 
で。
きょう、ひょんなことをきっかけに
自分のなかの「表現したい×∞と魂の叫びをあげている私」を
感知することができたんです。
 
(こういうのをキャッチするスキル心技体を磨くレッスンは
インナーワークのレッスンになります)
 
微細なそのエネルギーを、よーく身体で味わいながら
そのパーツをさっとスケッチしました。
 
▼こんな感じ。
 
 
ラフだからわかりづらいかもしれませんが
 
私の表現したい世界に他者はいないんです。
 
ただひとり、美しい花びら、かぐわしい花々に囲まれて
ふかふか、ふわふわと、漂いながら、
 
花びらが1枚、2枚と数を数え
 
「あのひとは私のことが好き、嫌い、好き、嫌い」と
ビロードのようにやわらかな花びらを指ではじきながら
 
となえているような
 
とってもデリケートで極小の少女の私。
 
今朝
浅田真央選手の華麗なるフリープログラムを見て
感涙したせいなのかもしれないけど
 
あたかも美しく華麗なフィギュアスケーターのように
 
ひらひらと花々の渦を描きながら
くるくるとダンスするように
うたをうたっているんです。
 
そう、この「うた」こそが、私がつかまえなくちゃいけない部分。
 
その部分に、まずは、と聞いてみました。
 
「本当はどんなブログを書きたいの?」
 
すると答えはこうだったのです。
 
「生きるって難しいね。でも輝かしいの。
そのなかで躍れる美しさを表したい。
そして、読んでくれたひとに“え?なにそれ”って感じてもらいたい」
 
「ブログで、自分のサロンのセミナー告知とかするの、面倒。
そんなことをメインにブログ書くのは、意に沿わない」
 
なーるほどねー。
オッケーよ!
あいあいさー。
 
おまけに
 
このパートはけしてむき身にしちゃいけない部分です。
 
現に、このパートによーく耳を澄ますと
 
「世界は怖い」と怯えています。
 
おっとー、かわいそうに!
 
さっとセラピスト目線の私。
(セラピストとして生きていく訓練の過程で
本当によかったのは、母性ががーんと高まったことです)
 
そっこうでその怯えている私が
安心できるような
ガードをつくって守ってあげます。
 
まわりにキラキラオーロラ色に輝くクリスタルのボウルを
ふちどり、その中のエレガントな世界にとかえました。
 
その中でその子は自由にはなうたをうたっています。
 
***
 
 
ああああ!!!
 
やっと、つかまえた?
 
これで最後といいたいよ!
 
でも「内なる神」の世界は未知すぎるので、
 
この先何があっても、私は誠実に向き合い続ける従者だけどね。
 
とにかく、こうやって
半年以上書くことを放棄していた私が
ちゃんとブログをリフレッシュさせられたんだから
万歳。
 
ひとたびは落着。
 
私ったらどんだけ素直になることに臆病な人間なのかしら。
 
自分のありのままにあきれかえりたくなることもしきりだけど
 
どうにもすることのできない生身の私のありさま、生きざまを
 
同時にかわいく愛しくも思えたりするのです。
 
 
なぜって?
 
だって。
 
この苦労の数だけ
 
私は着実に、
 
大切なひとたち(クライアントのおひとりおひとり)のあるままを
 
こよなく慈しむことができるように
 
腕が磨かれてきているのを感じられていて
 
すごく自分のことを好きになることができてきているからです。
 
 
14年ぐらい前。
ライタービジネスの文章もさることながら
自分のためにつづる日記さえも
 
自分の書く文章が大嫌いで、
自分のことをあらわにすることがとてもじゃないけど苦痛で苦痛で。
何のために生きているのか
どうして私は書くことを選択しているのか
 
何もかもがわからなくて
死んでいるように生きていたことがありましたが。
 
なぜ、私がかつてそうだったかも
苦しみとやまほど向き合い
自分自身のあるままの姿と真摯に向き合い続けることができたから
いまだからわかるようになりました。
 
私が目指してきた表現の世界とは
 
自分のことが大好きゆえ
受け容れられる他者の等身大の姿。
世界の有象無象のひとつひとつを
深みから肯定的に受け入れることのできる
世界観
 
だったからなのですね。
 
私の中でそれを
 
「愛」
 
と呼んでいます。
 
いちばん素直な私を
 
受け容れ愛でるように成長できたとき
 
私のいちばんかにばんのアキレスけんテーマでもある
 
異性との愛情問題も
 
終焉をむかえることができました。
 
 
大好きなあのひとが
私の想像している王子様像と
うんとかけ離れていて違っていても
それをまるで自分の心臓の一部のように
大切で愛しいものに感じられるようになったからだと
分析しています。
 
 
私ったら本当に愛の病気を持っているのです。
そうじゃなきゃ「愛ある関係性のレッスン」も思いつかないし
「恋文屋」の天啓もおりてきませんでしょう。
 
この病気は
この先もなくならないでしょうし
なくなる必要もありませんが
 
そのケアのしかたや
手なずけかた
愛の病気そのものの楽しみ方
 
そのあたりを会得することができたことで
 
うんと小さな石ころみたいな
存在にまで変えることができたように
感じられています。
 
私にとって一番大切なものは
 
 
別名を
 
大自然
宇宙
 
とひとつになること。
 
それに気づき、うけいれ、したがって生きることができるようになったとき
 
病魔がかわいい石ころになったのでした。
 
 
***
 
 
 
そして。
 
その愛の力に従って。
 
 
これから、このブログは、
大奥のふすまの向こうで
たわむれている極小さい少女の、
かすかなはなうたをおとどけすることにしました。
 
あらためて
どうぞよろしくお願します☆
 
どんな言葉とうたが飛び出すのか
私にも未知過ぎて。
 
どきどきとしてます。