ありのままの自分を見つけるプロセスとして 自分の内側にある微細なエネルギーに形を与えるために ランダムに複数あるぬいぐるみを直観で選んで その声を聞き取っていくとりくみが じつはかなり胸に響きます!私の調達してくるぬいぐるみは ちょいとかわいめが多すぎるかなとこのほど反省し、 新たにプラスした勇猛果敢そうなライオンや恐竜、ぶたなどです。 楽しいですよぉ~ |
自分の体のうちにある感覚や感情は、
現代社会ではふだんなかなかはっきりと知覚しにくいかもしれません。
けれども、
私たちの精神の機能のうちのいたく重要なパートとして認められているのには、大別すると2つ。
論理的な思考と
情動や感情、(ときには感覚的な部分、さらには直観)
とをあげることができます。
ですが、
論理的な思考ばかりを優先させていると、
感情や感覚がふたされつづて、
見失われてしまい、
その結果
ものごとがうまくいかなかったり、
思うように前に進めなくなってしまう。
なぜなら「大事な部分」がそこに存在しないからです。
もちろん、逆もまた真なりです。
感情ばかりが優先されていても、
論理性を欠いたら、
具体的に前進していく力が不足してしまうでしょう。
ですが、とりわけ現代社会を生きる心理臨床家としては
前者のケースのほうが多くみられるように思われます。
ので
「どうしてこんな風にトラブルが続くのかしらん?」と
疑問に思われましたら、
ぜひ「感情」や「感覚」の扉を開くことをおすすめしたい。
自然とバランスがとれて進みやすくなるはずです。
……とはいえ、ここにひとつハードルがあります。
クライアントの方々と向き合いながら、日々痛感させられているポイントです。
現代社会はとかく論理的な思考を重視しすぎてきてしまったのでしょうか、
戦後の親世代が過度に子供たちに「良い子」であることを求めすぎたのでしょうか、
20代~40代後半の方々の声をきいていると
(もちろん私も経過ずみで、やまほどもがき苦しんできたうちのひとりなのですが)
どうも「頭で理屈で自分のハートやパッションをやり過ごす」クセが
過度に身に付いているようにお見受けいたします。
つまり自分の「ハートやパッション」が何を求めているのかさえも
気付かないまま、なんとなく論理的な思考から
判断されるよりよさそうな道についている、ごようすなのです。
「どうしたいの?」
「どのような気持ち?」
と質問しても、なかなか答えずらそうなことは少なくありません。
そんなとき、私は「身体の感覚」や「無意識的な動作」などを入口として、
ご自身の「ハートやパッション」に触れていくプロセスをサポートすることを
意識します。
「ハートやパッション」が不在のままですと、
その方の身辺、現象面で、必ずや何か不調和を感じていらっしゃるはずなのですが、
残念ながら、こういった日常的なケースに対して、
心理セラピーがいかに有用であるかが、
いまだまったく知れ渡っていないことを私は強く憂いています。
私たちは人間ですから、
うつや◎◎障害、依存症などといった「病名」を授からなくても、
存分に「苦労」に巻き込まれており、
「どうしたらいいかさっぱりわからなく路頭に迷って混沌ともがきあえぐ」ことあるのは
少なくありません。
人生の労苦全般に心理セラピーはとても有益です。
おまけに「付け焼刃や気休めとは異なる根本からの変容を得る」ので、
生涯を通じての豊かさが手に入ります。
それが、大昔の村社会でいうなら「長老」が担っていた
「知恵」に気づかせてくれる、
人生と魂のプロセス支援だからです。
(あ、私が傾倒している流儀は少なくとも)
こころの混迷の時代に入ってしまったのは
核家族化が進んだ結果だと
私は見ています。
さて話を少し戻したいと思います。
今週の日曜日にNHKラジオさんの『渋マガZ』という番組に
ゲストとしてお招きいただいているので
あまり悪くもいえないのですがw
昨日もNHKの『クローズアップ現代』で
認知行動療法が薬物療法だけの治療にくらべて
はるかに治癒力があることを
イギリスの研究データをひっぱってきて発表されていましたが。
昨年シャネルの映画が話題になりましたね。 ご覧になられた方も多いのではないでしょうか。 最近の私のお気に入りの一冊がこちら。 気丈な生きざまにこころ打たれることしきりです。 自分との共通点をたくさん見つけては、ひとりで喜んでいますw その中のひとつに、社会に対する異風たる姿勢 「嫌悪の精神」を大事にしていたという点をあげられます。 |
私はたえず「嫌悪の精神」を大事にする人間ですから、
この報道に対して強い「嫌悪」を催しました。キッパリ、はい!
私個人として、「おいおい、認知行動療法の論理的思考の有用性に
光があたっているようだが、心理療法の真髄はそこか???」と、です。
確かにものごとをリフレームしてとらえなおすことで
私たちは固着してしまった世界から自由になります。
認知行動療法そのものが悪いわけではありませんし、
むしろ心理学研究のプロセスとしては、画期的であったことも確かです。
認知のゆがみを是正していくことは、
大いなる変容を促すでしょう。
私の行うセラピーでもその考え方を大事にしています。
ですが!私が報道の記者だったら、
もっと自ら心理療法を経験し、しっかり何がひとのこころに大切かを
経験則から割り出したうえで構成を考えるね、とがっかりでした。
それだけでは足りないからです。
人間の本質のパワフルさを理解する心理セラピストとしては、
人間のこころをひとつのギフトとなぞらえるなら
一般に流布する自己啓発書は、表面のラッピングペーパー、
認知行動療法は、どんなボックスにするかの一側面に
私には思われるのです。
でも本当に大事なのは、
その中身であり、その中身には「器」が必要なのだと
その中身そのものが気付くことであり、
その中身はそのままで十分に
素晴らしいギフトなのだと自信を持つことであり
つまり「あなたはどんなギフトの持ち主なのか」それを
本人がありのままに受け容れ、腹からの力を実感しながら
生きられるように成長することにあると私は思っています。
精神療法のひとつの方法にかつて
「電気ショック」を与える方法がありました。
初期のうちは、臨床家側も
おそるおそる取り組みますから、
クライアントに対して入念に向き合い、
たっぷりとエネルギーをかけていきます。
そして、この「電気ショック療法」は成功しました。
ですが、じょじょに「電気ショック療法=うまくいく」と知識化されたとき、
治癒率は下がっていきました。
私はこのエピソードは
人間を治癒させる本質が何かを
見事に教えてくれているような気がするのです。
そして私のセラピーではそこを大事にしたい。
番組では「認知行動療法」の使い手として
何人かの臨床家が取材されていました。
そのなかでおひとり「あ、この方は、良い臨床家だな」と
伝わってくる方がいました。
それは父親にコントロールされていたと感じていた
公園にクライアントともに連れ立った方でした。
あの方は論理的な思考だけではない、
ハートがあふれていました。
あたたかなお人柄がにじみでていらっしゃいました。
受け止めてくれそうな懐をお持ちでいらっしゃるようにお見受けしました。
もちろん全部こんな評価は私の投影にすぎませんが。
まあ、いつの時代も結局は
「肩書き」を超える何かがひとをひきつけるわけなのですけどね。
ただ何も知らない初めての方にとっては
テレビで言っていたものへGO!と
まずははじめの一歩を切るのでありましょう、
お亡くなりになられた河合隼雄さんは
ユング派の分析家ですから、
深層にあるものを大事にすることをお考えになられたようですが、
いっぽう「そのクラス(領域)は、すべてのひとが到達できるものではないし、
何よりもマニュアルにできない」という批判もあったそうです。
認知行動療法を国家資格にしようという動きがあるのは
マニュアルにしやすいからだというのです。
ここで思い出してほしいのは、
国家資格をとっていれば
どんな美容師も、あなたにとって有益だろうか?
国家資格をとっていれば
どんな整体師も、あなたにとって有益だろうか?
ということです。
…とかいって、国家資格になったら
結局、私も「現実を生き抜く民間人」として
取得に向けて突っ走らざるをえませんが!?
(まだ模索中w)
したがって、
結局は、心理セラピストは恋人を選ぶのと同じように、
誰でもいいわけではない、
自分にとって本当にいいひとを探すことも必要だ、
ぐらいの取材のまとめ方にしてもらいたかったですねえ。
…というか、私が取材スタッフに加わってたらそうします。
申し訳がありませんが、異論をひとりでふくらませておりました。
むろんそこで感じ取られたことは、
すべて私の未来の表現の世界で活かすべくものとして。
あくまでもいち臨床家のぼやきですが、
ものごとをニュートラルに見ることを極めようと(それが臨床の腕につながるから)
深層心理からあく(古い自我のパターン)をとりのぞくワークを繰り返すーーー
そんな修行の道を
余儀なくされている立場の人間の発言は、
個人的な投影の問題を意識化できていない
ジャーナリストよりもリベラルなんじゃないかなあと
少々批判がましい論調で恐れ入りますが、
あえて辛口でいかせていただきました。
共感いただける方がいたら、嬉しく思います。
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