みなさん、こんにちは。
きょうの東京はとってもいい天気!
煮詰まったら「遊びごころ」を。
きょうはそんな気分の私です。
このところある種のストレスとイライラに襲われておりまして
これとどうやって仲良くしようかと模索してみました。
(これはインナーワークのレッスンが有用)
このストレスとは・・・
すべてが幻想で
ひとと自分をくらべてもしょうがない
ということなどやまほど達観しぬいた私でもありますが
それでもなお
無意識レベルにセンサーしている
(無意識のアンテナはとっても無防備でスポンジのようにいろんなことを吸収しますが
それらすべてを受け止めていたら身がもたないでしょうという理由から
意識はみずからの防衛のために抑圧・抑制という力を備えているのですね)
「ひととくらべている自分」に根差していることにきがつきました。
そこでさっそくストレスの指向性をさぐっていきます。
存在するストレスに蓋をしてもそれは
「やり過ごしている」にすぎません。
時ほどなくすればまたこの根源的な問題に向き合わなくてはならないときは
どのような形であれ必ずややってきます。
どのようなエネルギーもとても素晴らしく
それはただ「ある」だけであり
「指向性」をもった存在にすぎません。
というわけでストレスの生成主に次のように質問しました。
「ストレスさん、どうしたいのですか?」
答えは
「すっきり、せいせいとしたい!」
さらにききます。
「それはどのようになっている世界のことですか?」
答えは
「独自のフィールドをすいすいと泳いでいたい」
やっぱりねー、何度やってもここにたどりつきます。
となると「なすべきこと」は私の場合
せっせと書きたいことを書き続けて、独自の世界観をしっかりと
形にすることでしか、このストレスは浮かばれないというわけですね。
けれどもストレスの言い分はさらにあります。
「なのに、よけいな情報がちらちらと
(私はかなりあらゆるものを遮断してきているにもかかわらず!)
本当に邪魔。
ほっておくと、聖家族への夢見がふつふつと浮かんできて大変」
聖家族のイメージ。古今東西、こういう家庭の 光の面にあこがれる傾向は高いのですが、 結婚と家庭の深層は、そうばかりでもありません(苦笑) こちらの絵はスペインの有名な画家ムリリョ作「小鳥の聖家族」 |
というわけですね。
結局、私自身の世界観が私の道を阻んでいるのです。
世界はおのれの世界観の投影でぜんぶなりたっていますからね。
***
私の問題は、ごく一般的なあたたかな家庭を営むことを夢みる小さい少女から
(家庭をたとえもったって必ずしもあったかくなるとは限らないのに!)
パワフルで強大な金の龍、さらには宇宙外生命体にいたるまで
やまほどあふれかえるエネルギーを
どのようにまとまりをつけていくのか、という
統合失調気質のテーマをずっと抱えていました。
クライアントの方は私を「宇宙人?」とよんでくださいますしw
一方で、父や亡き兄にはじまる異性との闘争も筋金入りで
この問題にさしかかると強烈な依存体質が引き出されてしまうし
ふつうの顔と、超人間の顔と
どれが私?
いえいえ、答えはどれも私。
そのすべてを手なづけられるようになることを
ユングは個性化といいました。
あらゆる自分を抱合するためのレッスンとしておすすめしておりますのは
ユングの錬金術のワーク(現在、個人レッスンのみ)
インナーワークのレッスン(同上)
タオセラピー(同上)
になります。
もちろん個人セッションも!
つくづく、自分をまとめるだなんて考えずに壊れたまんま生きることができたら
それはそれで楽だろうか?
なーんて思いたくなるくらいで。
(いえいえ、それはそれなりの苦しみがあるのがひとの常)
生きることがどうして苦しいかといいますと
いろいろな表現のしかたはありますが
「相対立する指向性をもった自分の問題」
に集約させることができるのかもしれません。
葛藤と相克のはざまでゆれながら
私たちは現象と現実をつくっていきます。
ですが、対立する因子のどちらもが個性化には重要です。
片方だけを大事にして
もう片方を排除したとすれば
排除したスピリット・エネルギーに
やがては時を経て必ず
肩をこづかれてふりかえらなくてはならなくなります。
どちらか一方、より美しく思われるもの(理想や夢に位置するもの)だけが良くて
そうでないほう(現実に位置するもの)は正しくないということはありません。
あらゆる指向性を尊重し
時間というエネルギーも加味しながら
それらのどれもが解放されやすいように
そのひとだけの「円」(ホリスティックワールド・全体性)を
形作っていくお手伝いが
私の仕事になります。
***
話を戻して。
今回の私のストレスの場合、
よけいな情報がちらちらとしないような環境を確保する必要があります。
算命学でもいわれているようですが
ものごとが思うように進まないと感じるとき
「環境」の再検討・再設定が大事と考えるそうです。
これは私の大好きなユングの錬金術思想にある
自己の「枠組み」の設定に同じです。
どのような自分としてこの世を生きるのか?
ということになります。
私はこの1~2年の精査(インナーワーク)によって
物理的な環境要因のセットアップ完了。
「小さい私」「もとの意識レベルの私」にとって悲鳴ものである
「赤坂見附で女ひとりで60平米を回す」が重要のようです。苦笑。
これについては建設的に考えれば考えるほど、あきらめました。
私のありのままのエネルギーを大事にするなら
それは必要不可欠なんだ、と。
理性で、節約したいから、新宿でもっと小さい部屋をかりて、
土地代をさげてうんぬんなどとは
私の精神の大きさにはあってないんだ~と
いやいや受け容れました。とほ。
さらにもう一歩、大詰めに入っていますのが
「精神の枠組み」です。
「金の龍」という大変素晴らしい中身を見つけることができました。
それが「森と湖」のように広いスペースを必要としていることもわかり
そのこころで生きることにしました。
すると、「金の龍」と同化した当初の
「激しい肉体的なむくみと体重増加、過食傾向」はおさまりました。
(エネルギーが大きくなったら、既存の肉体の器を基準にしたとき
たくさん食べてエネルギーを補いたくなったのねw)
ここまできて新たに問題になったのは
それでもなおちらちらと入ってくる外界の情報、
そしてそれらと自分をくらべてしまうという無意識でした。
そこでインナーワークをさらにつづけます。
「すべてをシャットアウト、ひとのことが全く気にならない
世界ってどんなの?」
「すがすがしくて霊力に満ちた
大きな森のなかでのんびりと遊んでいる私」
とでました。
そこで「遊びこころ」を発動~~~~☆
ここからはもう「俳優」になったこころで!!!
東京のど真ん中で暮らしているけれども、
もはや私は森の住人なんだ!!!!と。
森のなかだから
私のサロンと住処は
ログハウスなんだ!!!と。
ここが森だとするなら
世界は・・・万華鏡にうつしだされるきれいな花模様であるだけなんだ、と。
そのこころを楽しむことにしました。
するとまあ、待ちゆくひとさまが
紙人形に見えてきます。
どうってことありません。
ひとがどんなに自分にとって羨ましくて妬ましい
ライフスタイルをつくっていたとて
それは紙人形が楽しげにゆらゆらとゆれているだけ。
そして私は
きょうの夕飯のために
食材を探しに森のなかにでかけて
かえってくるだけ。
道草したい場所もとくになし。
自分のロッジのなかには
愛犬とあたたかな暖炉?と
安らげる毛布があります。
リラックスして読書を楽しんだり
物書きにふけったり。
そして訪ねてくださる
町からのご相談者のために
魂をこめてガイドをつとめさせていただくだけ。
ぐんと楽になりました。
せっせとロッジの別棟にあたる
サイトづくりのつづきを楽しんだり
新しい「おもちゃ」たる「ワークブック」づくりに
いそしんで、命が燃え盛るのを喜びたいと思います。
こころは「大草原の小さな家」のローラちゃんかしらね。さしあたって。
(あれは森ではないけどw)
****
昨晩、母といろいろ話し合い研究分析をしていて
こういった精神構造の秘密や、個性化の方法論が
知られないまま、社会の枠組みにくみしだかれながら生きざるをえなかった
古い時代というのは、その方法論の恩恵にあずかることができるようになった人間よりも
はるかに生きづらかったのではないかと考えさせられました。
たとえば母の場合。
タオセラピー的に分析するなら
家庭をつくろうとしたらそこは墓場になるタイプなのに
母は家庭にこだわっちゃったんですね。
人の目を気にする性質もあったでしょうが
社会全体から「嫁にいかない女はおかしい」という目でみられたというのが
母の言い分です。
今の時代よりは職業婦人はレアだったことは確かです。
こういうケースは多いと思います。
向いていないのに家庭を持った男女。
そのもとに生まれた私ですから
ここまで産み育ててくれたことには感謝の気持ちはあるものの
そうとうハードでもありました。
ファミリーセラピー用語でいう機能不全家族ですね☆
母は、お金のカルマを持っている私のことをさして
娘のカルマを引き受けたといいますが
同時に、私は母に言います。
「両親のカルマを引き受けたから今の私がいる」と。
母は母で大変だったと察せられます。
父は比較的傍若無人ゆえに人の苦労がよくわからないまま定年をむかえ
それ以後なんとなくひとの苦労のはじっこが理解できるかんじにはなってきました。
母は本当は家庭を持たず、仕事に精をだしたほうが
母らしい命をまっとうできたんだ、と
確かにタオセラピーでよむとそうなります。
実際、母がそのように生きてくれた方が
私の性質にはちょうどよかったとも思われます。
(これはひとによります)
ですが、歴史と社会の背景から
我が家は、自分らしさを手にすることのできない一員を
抱えて進んでこなくてはなりませんでした。
母の時代は河合隼雄さんが出てくる前です。
どうしようもありません。
(ですが、私は河合さんのアプローチだけでもまだ
足りないという立場にいます。
彼の時代からさらにもう少し時間を重ねた時代の
精神分析療法的心理セラピーにであえてよかったと思っています)
母に聞きました。
「もしも若いときに、私が手にしたたとえば
心理セラピーやタオセラピーの見地と思想を知っていたら、
お母さんは、家庭をあきらめることができたでしょうか?
自分には向いていないと。
魂には相克現象が必ずやあって、その流れのなかで自分が
向いていない方(逆送側)をぐんぐん進んでいるんだと知ったら
もっと早いうちに進路をとりなおしたでしょうか?」
母はうーんとうなりました。
「私も結局、真理子と同じで
あたたかな家庭を指向して、その相克で苦しんだでしょうね。
でもママの場合は、なんでか宇宙の力が働いて
パパと結婚、そして真理子と違って別れることのできないプロセスを授かったのよね。
だから、もしもその結婚後に家庭には力をいれなくていいとさとったとしても
真理子がでてきてしまった以後は、
やっぱり真理子に過熱せずにはいられなかったのだと思うのよね」
このことばが真実かどうかはわかりません。
でもある確かな世界を表現していることだけは私にはわかります。
母は、70歳をすぎ「これでよかったんだ」と受け容れているんだということが。
***
家族とはどんなに離れてしまってたり、喧々諤々だったりしても
深層心理では一蓮托生です。
そういう関係性にあるものだったりします。
家族という、個人よりも一段階大きな視野で
自分のプロセスをふりかえってみても
「これで最大・最善だったんだ」と受け止めることができるようになりました。
家族のなかであいつが悪い、こいつが悪いという
ものの見方は、私たちの自我を支えるうえでは役に立つ面があります。
誰かを悪者にしておくと、ほっと安心できるからです。
ですが、ある一定期間その境地に安寧したおしてくると
それだけでは根本的な解決にはなっていないことに気が付いてきます。
腹の底からのパワーを感じられないからです。
あるいは、なんとなくストレスがなくならないからです。
家族もまた個人同様に
「円」(ホリスティックワールド)を描くことを求めています。
これが無意識の素晴らしさであり
逆に生きづらさのもとでもあるように私は思います。
ですがそんな私たちに供えられた「精神の機能」からは
逃げることはできません。
積極的に飛び込んで、向き合って、仲良くしていくこと以上の
治療薬もありません。
その秘密をこのタイミングで手にしたいと
感じられている方のお求めを
こころから歓迎させていただきます。