半年ぶりのポストです。
うわー、本当に久しぶり!!
やっと、やっと、
「いちばん素直な私」をつかまえることができたかな?
***
私の苦しみは、書きたいのに、ちっとも書けないこと。
そりゃ、もちろん、愛のことも、マネーのことも、美貌のことも、
気に入らないことはたくさんあるけど、
これらぜんぶの問題の本質は
私の場合、
この「表現する」次元を高めることにずっとあって。
私の苦しみのパターンは、
理性や論理、理知、理屈、説明調、レポート調
で文章を書いていると、
身体が思い通りに動かなくなっていって
ことりと何も書く気がわかなくなってしまうことでした。
私の深層心理、うんと奥深い
「表現したいと魂の叫びをあげているパート」の
望みが
論理的な表現ではなくて、
愛の花園に包まれて、なにもかもを海と大地に溶かしてくれるような
ポエティックな表現だけに興味があるために、
主体者の私が理屈とか出来事を解説して
ぶいぶい飛ばしているのが
「自分らしさとして一致しない!」と悲鳴をあげるのですね。
***
もう、本当は、いまここで書いている書き出しも
気に食わない!
説明調にならざるをえないから。
でも、いまだけは。
いきなり、ブログのトーンが変わったら
ここまで書き上げてきたものと
これから書いていこうとするものとの
つながりがさっぱりわからなくなってしまうかな、と思って
ふんばって、わかりやすくまとめさせてもらいます。
***
私の「書けない」は
結局、うんと深い、いちばん大切な「私自身」「本当に繊細でちっちゃくていたいけなインナーチャイルド」と、実際の私との関係の問題からやってきていたのでした。
そのことは理屈ではやまほどわかっていたし、
これまでもさんざんインナーワークをくりかえして
まるで大奥のふすまを何枚も何枚も開きつづけるかのように
一歩一歩、奥のほうへ奥の方へと前進しつづけていたのでしたが
このところは「書けた!」と思うと
「それはもう書きたくない!」と
いっこうに軸が定まらなくて、これまた途方に暮れていたのでした。
おまけに
個人開業サロンを運営していて
わたしみたいに「ハウツー本を書いたり出版したりすることには興味がない」という
スピリットは、はっきりいって致命的。
ありがたいことに特に赤坂見附にうつってきてからの
5年間は、口コミを中心に
運営は成り立っているのですけど
私の運営上の精神的な安心材料としては
ちゃんと「文章つづって表現できているセラピストでいたい」のですね。
なぜか?
自分がどのようなセラピストなのか
ちゃんと自己発信、自己開示してたほうが
既存のクライアントの方にも
意思や指針を伝達しやすいし
ましてやほかのお知り合いをご紹介くださったときなどにも
どんな人間なのかがわかったほうが
安心しておいでいただきやすいじゃないですか。
陰陽五行の自然の法則を信じる私としても
愛とお金(土性)を支えるものが「伝達」「表現」(火性)であると
熟知しているのですし。
今おいでくださっているクライアントのみなさまに
安心して私が提供する技法世界に飛び込んでいただくためにも
私はもう本当に必死!!
寝ても覚めてもこの問題とこんこんと向き合い続けてます、
ずっと。特に2008年ぐらいから集中的に。
この大奥の大奥にまでたどりつくふすまったら
いったい何枚あれば気が済むの????
私は自分の精神のしくみに
途中何度いやけがさして途方にくれて
投げ出したくなったか知れやしれません。
それでも、運命にひきずられるようにして、
それをせずにはいられない私の魂のおかげで
何度も何度も、
大奥のふすまを開け続ける作業を
繰り返し続けたのでした。
ほとんど「カルマ?」と思いたくなるような
重度の!筋金入りの!
魂のテーマをひっさげて
その自己治療のためにこんこんと
精神世界を分析研究を重ねてたら
陰陽五行の世界観をどのように心理療法とつなぎあわせられるか
発見でき、タオセラピー開発と誕生につながり、
それがもとでさらなる私の表現したい願望が高まったから
人間とは本当に陰陽、コインの表と裏、
すべてが連関作用、相補作用のなかで
ダイナミズムを描きながら
個人の成長を促しているのだと
感動することしきりなのですけど。
***
で。
きょう、ひょんなことをきっかけに
自分のなかの「表現したい×∞と魂の叫びをあげている私」を
感知することができたんです。
(こういうのをキャッチするスキル心技体を磨くレッスンは
インナーワークのレッスンになります)
微細なそのエネルギーを、よーく身体で味わいながら
そのパーツをさっとスケッチしました。
▼こんな感じ。
ラフだからわかりづらいかもしれませんが
私の表現したい世界に他者はいないんです。
ただひとり、美しい花びら、かぐわしい花々に囲まれて
ふかふか、ふわふわと、漂いながら、
花びらが1枚、2枚と数を数え
「あのひとは私のことが好き、嫌い、好き、嫌い」と
ビロードのようにやわらかな花びらを指ではじきながら
となえているような
とってもデリケートで極小の少女の私。
今朝
浅田真央選手の華麗なるフリープログラムを見て
感涙したせいなのかもしれないけど
あたかも美しく華麗なフィギュアスケーターのように
ひらひらと花々の渦を描きながら
くるくるとダンスするように
うたをうたっているんです。
そう、この「うた」こそが、私がつかまえなくちゃいけない部分。
その部分に、まずは、と聞いてみました。
「本当はどんなブログを書きたいの?」
すると答えはこうだったのです。
「生きるって難しいね。でも輝かしいの。
そのなかで躍れる美しさを表したい。
そして、読んでくれたひとに“え?なにそれ”って感じてもらいたい」
「ブログで、自分のサロンのセミナー告知とかするの、面倒。
そんなことをメインにブログ書くのは、意に沿わない」
なーるほどねー。
オッケーよ!
あいあいさー。
おまけに
このパートはけしてむき身にしちゃいけない部分です。
現に、このパートによーく耳を澄ますと
「世界は怖い」と怯えています。
おっとー、かわいそうに!
さっとセラピスト目線の私。
(セラピストとして生きていく訓練の過程で
本当によかったのは、母性ががーんと高まったことです)
そっこうでその怯えている私が
安心できるような
ガードをつくって守ってあげます。
まわりにキラキラオーロラ色に輝くクリスタルのボウルを
ふちどり、その中のエレガントな世界にとかえました。
その中でその子は自由にはなうたをうたっています。
***
ああああ!!!
やっと、つかまえた?
これで最後といいたいよ!
でも「内なる神」の世界は未知すぎるので、
この先何があっても、私は誠実に向き合い続ける従者だけどね。
とにかく、こうやって
半年以上書くことを放棄していた私が
ちゃんとブログをリフレッシュさせられたんだから
万歳。
ひとたびは落着。
私ったらどんだけ素直になることに臆病な人間なのかしら。
自分のありのままにあきれかえりたくなることもしきりだけど
どうにもすることのできない生身の私のありさま、生きざまを
同時にかわいく愛しくも思えたりするのです。
なぜって?
だって。
この苦労の数だけ
私は着実に、
大切なひとたち(クライアントのおひとりおひとり)のあるままを
こよなく慈しむことができるように
腕が磨かれてきているのを感じられていて
すごく自分のことを好きになることができてきているからです。
14年ぐらい前。
ライタービジネスの文章もさることながら
自分のためにつづる日記さえも
自分の書く文章が大嫌いで、
自分のことをあらわにすることがとてもじゃないけど苦痛で苦痛で。
何のために生きているのか
どうして私は書くことを選択しているのか
何もかもがわからなくて
死んでいるように生きていたことがありましたが。
なぜ、私がかつてそうだったかも
苦しみとやまほど向き合い
自分自身のあるままの姿と真摯に向き合い続けることができたから
いまだからわかるようになりました。
私が目指してきた表現の世界とは
自分のことが大好きゆえ
受け容れられる他者の等身大の姿。
世界の有象無象のひとつひとつを
深みから肯定的に受け入れることのできる
世界観
だったからなのですね。
私の中でそれを
「愛」
と呼んでいます。
いちばん素直な私を
受け容れ愛でるように成長できたとき
私のいちばんかにばんのアキレスけんテーマでもある
異性との愛情問題も
終焉をむかえることができました。
大好きなあのひとが
私の想像している王子様像と
うんとかけ離れていて違っていても
それをまるで自分の心臓の一部のように
大切で愛しいものに感じられるようになったからだと
分析しています。
私ったら本当に愛の病気を持っているのです。
そうじゃなきゃ「愛ある関係性のレッスン」も思いつかないし
「恋文屋」の天啓もおりてきませんでしょう。
この病気は
この先もなくならないでしょうし
なくなる必要もありませんが
そのケアのしかたや
手なずけかた
愛の病気そのものの楽しみ方
そのあたりを会得することができたことで
うんと小さな石ころみたいな
存在にまで変えることができたように
感じられています。
私にとって一番大切なものは
愛
別名を
大自然
神
宇宙
とひとつになること。
それに気づき、うけいれ、したがって生きることができるようになったとき
病魔がかわいい石ころになったのでした。
***
そして。
その愛の力に従って。
これから、このブログは、
大奥のふすまの向こうで
たわむれている極小さい少女の、
かすかなはなうたをおとどけすることにしました。
あらためて
どうぞよろしくお願します☆
どんな言葉とうたが飛び出すのか
私にも未知過ぎて。
どきどきとしてます。