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2011年1月27日木曜日

「願えばかなう」の真実とウソ

こちらはお教室の生徒さんがくださった
星野富弘さんの絵葉書です。ほっと癒されます。
シンプルさの中にも、星野さんの人生がすべて詰まった
重厚感があります。それが私たちの胸に響き
語りかけてくれるかのようです。
「願えばかなう」。

非常に美しいテーゼです。

確かに私もそう思える節があることも知っていますし。


一方、これほど浮足立ったものはない、ととらえることもできるのではないでしょうか。

もしも「願えばかなう」と夢見ることにかたよりすぎてしまったとしたら?

また、

「願ってもかなわないこともある」という人生の一側面については
どのようにとらえたらよいのでしょうか?

「願えばかなう」はずなのに
「願ってもかなわないこともある」なんて受けいれられないわ!

というひとが増えたら、どうなるのでしょう?
そのかたは、大変生きにくいのではないでしょうか?

なぜなら人生は、
「願えばかなう」こともあるし
「願ってもかなわないこともある」からです。

小理屈に聞こえるかもしれませんが、
実際、こういう精神状態がエスカレートしたときに、
ひとはトラブルを引き起こしているように
臨床的視点を通じて私は見聞きします。

そこで、「願えばかなう」---
この言葉の深層構造をひもといてみたいと思います。

ひとつめは、願いがかなえばはたして万事ハッピーなのか、どうかです。

「願い」のルーツは、2通りに分かれると私は見ています。

1つは、A course in Miracles的表現でいうなら「精霊」によるもの。
ユングの言葉を借りるなら、「自己(セルフ)」に根ざすもの。
「無意識の意図」によるものともいうことができるでしょう。

2つめは、「自我(エゴ)」によるものです。
形而上的な抽象表現をするなら、
「悪魔damon」の思惑に支配されたものともいうことができるかもしれません。

このため、そのときはハッピーに感じられるかもしれない「願い」も
2つめの「自我(エゴ)」に由来するものだと、
のちのちよからぬ流れが待ち受けている可能性が高いようですョ。
(データをとったわけではないのですが、
“願った結果、確かにかなった”という人々のケースを時間軸のなかで
観察していて、なんとなく私に感じ取られていることです)

わかりやすい例でいうと、
「宝くじ」に高額当選したあと、
その大枚を使うだけの器がその人間にない場合、
「死」が待ち受けていたというのが
世界中でことかかない、
最たる話かもしれません。

ですが、1つめの「自己(セルフ)」の意図にしたがう「願う」は
確かにかないます。また、幸福感の持続力も高いようです。

ただし問題がひとつありまして……

概して「自己(セルフ)」の意図にしたがう「願い」というのは、

本人の「自我」をおびえさせるものであることが多い点です。

これまたどうしたことか。はてさて。

キリスト教的観点でいうと「愛の試練」ともいうのかもしれません。


こちらが秘伝中の秘伝とされている
「カモワン・タロット」の悪魔のカード。
両脇に人間が鎖で繋がれていますが
実はどちらも人間のほうが好んで
悪魔の「欲望の指示」に従っている
と解釈しているのがミソ。
 私が愛用する「カモワン・タロット」の概念でいうなら、

ーーーユングも同様に表現しているのですがーーー

悪魔も天使も「神」の采配のもとにおり、

悪魔は「神の意図」によるならば、

だてに人間に天界の門をくぐらせないための門番であるのだそうです。

そして人間もまた、“好んで”悪魔の鎖につながれているという思想です。

ナルホド!この世のいろいろなこと、
人間の悲しい性(サガ)についての説明がつくような気がします。

私たちがもしも本当に幸福にみたされて生きようと思ったら

「狭き門」をくぐりぬければなりません。

(あ!ここで突如、とあるクライアントのことが彷彿させられました。
その方は「(過去にあらゆる物欲を満たしてきた結果)
本当の充足とは、大切なひとたちとの豊かな絆の中にある」とおっしゃっていました。

ですが、この「絆」を手に入れるためにもやはり、
「自己の意図」に従わざるを得ない局面に面し、
これに対して(単純にまとめてしまうと)恐れおののく
自我(エゴ)との葛藤のために道を見失い、迷われて
私のもとに足を運んでくださっているのです。
おのれの「真の充足を得る道筋」に光をあてるために

ーーーそしてまた、私自身もこれに同じだったりして……(苦笑)
ひとりつぶやきたい、くたばれ!「楽して幸せになりたいエゴ(サタン)」め!
私もひとりの人間として、日々自身と戦いつづける、こころの修道僧気分です。

ただ面白いなあ(はたまた厄介だなあ)と感じさせられるのには、

人間が「自己の意図」に頭を垂れるようになるまで、

たくさん回り道をしなければならない点です。

「ああ、もう自分ひとりでは到底だめだわ、太刀打ちできないわ、懲りたわ」

というところまでつきつめてはじめて「自己の意図」に耳を傾けるようになるようです。

このとき“人間としての傲慢さのボロ衣”がようやくはぎとられるようです。

“真の謙虚さ”とは、このときに宿るように思われます。


人生とはウロボロスの蛇のようだなあと感じさせられるのですが、

「自己の意図」に立ち戻ってみると、
「な~んだ、結局、人生の早期にコミットしたこと
そのものを目指さなきゃいけないのではないか?」
ということは少なくありません。

そこへもってきて
「自我」は、「そんなのイヤだよー、あっかんべー」といって
「自己の意図」から逃走をくりかえすわけですw

ですが、その方の性質(もってうまれた指向性)として
「神の恩寵あるもの」あるいは
「神への愛を失わないもの」はたまた
「真理を追求するもの」である場合、

必ずや「自我」が「自己」および「無意識の意図」と対決するときがやってきます。
また「願いがかなわない」ときがあるのは
「自己の意図」が満たされていないからです

それが「いつ」なのかは、ひとによって千差万別です。
だから他者の人生のシナリオを一定の成功パターンとしてとらえるのは
至極ナンセンスだと私には思えます。
本当の幸せの形は、そのひとの「自己(セルフ)」だけが知っているからです。


たとえば私はメディアなどがうたう
「この人はこんな風にして幸せ成功パーソンになった!」的な
筋書きを目にするたび懐疑的です。

「なんだよ、死ぬまで、それが本当にそのひとにとって
幸せの形なのか、まったくわからないのにねえ」と。

「無意識の意図」と対決をはかるとき、
古いアイデンティティーは打ち壊されることを余儀なくされます。

新しいアイデンティティーの誕生のために、
変容の準備がはじまります。

これは再三再四私がこのブログでお伝えしているとおり
「精神の自殺行為」にも似ているだけに、
(おそらく肉体の自殺行為以上の悶絶が待ち受けているかもしれません。
ひとりで立ち向かおうと思ったら。
だからひとは、それに耐えられなくて肉体の死を選択してしまうのだと思われます。

変容を受容し、そのプロセスに耐えうるだけの精神力の不在を意味するもの、
それが今年で13年目になる“自殺者数3万人超”という現象でもあります。

だからこそ私は出版社やテレビなどが続発させている
“夢見”オンリーの情報提供に違和感を覚えます。

もちろん、教育の現場でメディアリテラシーが促進されていて、
家族環境も豊かに整うだけの社会構造がそこに用意されていれば

夢を見ることの大切さは存分に発揮されましょう。

ですが!この脆弱な社会の基盤において“夢見”オンリーの情報発信は、

大変危険であると、私は警鐘を鳴らしたい!

……あ、話がそれました、すみません、つい熱くなってしまった)



まずは…真の豊かさや幸福感を手に入れるには、

大志や理想を追い求める勇気と
自分自身への慈悲心が不可欠です。

そのうえで、ひとは柔軟に「自己の意図」にしたがって
変容と成長を続けることができるようになるからです。

このとき「こころある介添え人」が人間には重要です。

大家族社会や村社会においては「長老」がその役割をはたしていました。
ですが核家族化社会のなかで育った私たちには

「こころある心理のセラピスト」が同様の役割を担っていく必要があると
私はこころしています。


あ・・・そういえば大学4年生のとき
1年生に「ビッグママ」という異名をいただいたことを思い出しました。

「そんなのやだ!あっかんべー」と
こころで背を向けましたが
(私の自我は良妻賢母を願ったからですw)

やっぱりウロボロスの蛇のように
若かりしころに放射していた指向性に

ふたたびもどってきて今、このお仕事をしている私です。

「真の願いとともに生きたい」

そんなあなたのご訪問を大歓迎させていただきます。

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