自撮り棒で、斜めにとってみたりもして。 |
何のために生きるかだなんて
簡単に見つけられるものでもないけど
私は私なりの答えを見つけています。
それは、ジャーン!
「徳を積むこと」
かなっと。
私が自分のことを
「一般的な流れにおさまらない」と思うところって
20代のときから、いっぱい気づいてきてたけど
独身生活で「私とクライアント」という関係性を中心に
時間と労をつぎこんでいるって
ちょっとやっぱり特殊なんでは?と。
しみじみ思うのですね。
でもカエルの子はカエルだし
アヒルの子はアヒル。
自分ではないものには誰だってなれない。
だから私は「世間一般の成功モデル」とかいうやつが
だーい嫌い!
そんなの誰かの憧れの投影の産物じゃん!ってね。
千差万別の世界において
そんなの宇宙の端っこの端っこもいいところ。
「世間一般の成功モデル」を追いかけているひとは
私には不幸にうつるのです。
それは幻想だからです。
自分の真実を生きているひとが
幸福に私にはみえます。
そんななんでもありの自由世界のなかで
ぽつーんと生きていくうえで
何をよすがにしたらいいんだろう?
そう思うこと、誰にもあるんじゃないでしょうか。
そこで問いたいのが
興味関心と生きることの価値を
「世間一般の成功モデル」を追いかけることではなく
「徳を積むこと」に置くことができると
生きることって
もっと楽になるのにな〜
と思う今日この頃です。
そうすると周囲と自分を比べる必要が
まったくなくなっていきます。
偉そうなことをいえるほどのことを
なせているわけでもないのですが
でも私なりに「身を切って生きている」実感があります。
誰のために?もちろん自分のためという要素もありますが
同時に、その自分のためが、ちゃんと、ひとのためにもなっている、っていうところ
大事だと思うのです。
私は長年「過小評価」する傾向が抜けなくて
かなり苦労してきています。
「いえいえ、私なんかがそんな、とんでもない、おそれおおい」とかね。
その反対側にあったものは
「のらくら楽したい」とか「責任取りたくない」とかもあったりして、
「ケチ子」さんだったんですね〜。反省。
「自我肥大」するつもりもないんだけど
自分がお天道様から授かった力量は
ちゃんとお天道様にかえさないとね、と。
だから自分の力量が何なのかも
やまほど相対関係のなか(自分をうつし返す鏡との間)で
吟味しぬいてきましたよ。
この辺は私は相当にオタクだし、
こだわりん坊だし、職人気質マンサイなんで
かなりニュートラルに考察しぬいてきたと自負してます。
それもふくめて「私は何者か」がはっきりとして
「自己愛」を成熟させることができた今、
こころから思えるようになったのでした。
(タオセラピーの功は大きい)
ここまで生かさせてもらってきていることそのものにバンザイ。
そして、その「徳の積み方」はひとによってまちまちですよね。
そのひとだけの「徳の積み方」について
いっぱいいっぱい探っていくことができると
そのぶんだけ「因縁消化」とか「幸福感」とか
高まっていくんではないでしょーかっ。
私はいま、思わぬところで「因縁消化」を実感しています。
(ちなみに因縁消化が促進されると、
いろんなことがどうでもいい度や柔軟度がアップします)
8年続いているカウンセリングサロンの運営も
因縁消化の方向性を感じていましたが
(私は研究者気質なので、運営するのとかが大の苦手であるため)
そこから一歩進んで
「霊能」世界で「鑑定」を重ねていて
もっとさらに因縁消化されているのを感じるのです。
これってものすごいグレーな世界だから
正直、逃げ腰及び腰
思いっきり蓋をしていたんですけど……
私が表現したい「愛の世界」を発見したとき
時空を超える鑑定技術を
spiritualに展開しないのは
ギフトの出し惜しみってこったかーと
反省したわけだったのでした。
日々、せっせと損得感情抜きに
自分の力量を惜しみなくご奉仕していくこと。
もったいぶらずに自己を開示していくこと。
苦手なことであっても、それが自分の力量内であれば
しっかりと身を投じていくこと。
勇気いるけど大事な
「徳を積む道」なのね〜。
もとが「けちん坊さん」の私だけに
「ほら、徳を積みたいでしょう?」と
自分で自分を鼓舞しています。
日々精進つきませぬ。
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