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2015年11月4日水曜日

【魂の核心と生きる】聖書の一節を鏡にインナーワークをする


むふふ。最近アフタヌーンティーでかぼちゃとクリームチーズのスフレをいただきました。
ふわふわエアリーな生地にかぼちゃの自然の甘みがシューっとお口のなかで溶けていく感触は
幸福感の姿に似ているーーーそんな気がしました。
幸福感ってなんて甘やかなんでしょう。
最近の私のお気に入りインナーワーク法をご紹介します。

インナーワークの大切さは、
魂が求める意図に従って生きやすくなるという点にあるでしょうか。
幻想ではなく「自分だけのの真実」を生きることを助けてくれます。

クライアントのみなさまのお話しを
教えていただけばいただくほど
「人生の途上で起こることは、
そのひとの世界観からくる幻想であり、
さらにはその幻想が
数珠繋がりのように、次々にまたあらたな
出来事を引き出していく、幻想の楼閣、それが現実か」
という思いを強める毎日ですが、

「内なるガイドはすべからくいたるところに24時間ともにある」

という考えをベースとして開発しました
インナーワーク法は、どのようなものであっても適用ができます。

たとえば外にみる木立、公園に遊ぶ子供の姿、
バスに座った時のとなりの老夫婦の会話などなど、す・べ・て。

そこに「あなたは何を聞き取るか?感じ取るか?」が答えなのですが

その「チャンネル窓口」が
「意識(マインド)の世界観」から
遠くにあるものであればあるほど
私たちは「内なる神のメッセージ」を受け取りやすくなります。

あなたにとってふだんの意識から遠いチャンネルとして、
どのようなものが想像できるでしょうか?

たとえば私は、もともと「視覚」からの情報が優位なタイプでした。
実際に目に見えるものの影響を受けやすく、
白昼夢やビジョンをよくみるタイプです。

そんな私にとって「遠い無意識(あの世)チャンネル」は「聴覚」でした。
長年の訓練によって、このチャンネルと仲良しになることができるようになりました。

たとえばこうして文章をつづるのも
「頭」や「論理」をつかっては書いていません。

「遠い無意識(あの世)チャンネル」につづく「魂の聴覚」を澄まして
ポツリポツリと聴こえてくるのを待ち
それが表れ始めたら、その「声」に従って
言葉をひとつひとつひろっていくーーーそんな感じです。

朝の瞑想(インナーワーク)時においても
「きょう、私はどのような心構えで活動したらいいですか?」
という問いかけをもって耳をすますのです。
そこで受け取ったメッセージに従って1日を過ごすことで
物事に対するこだわりが小さくなり、比較的スムースに進展していきます。

さて、そんな「遠い無意識(あの世)チャンネル」のひとつとして
私は最近、「聖書の中の言葉」も
素晴らしくスピリチュアルなメッセージを聞き取るための鏡になるということを、
あらためて知りました。

近所に上智大学があり、そこに聖イグナチオ教会があるのですが
ふらりとそこのサイトを調べたら、
「祈りの場」というサイトペイジを見つけたのでした。

そこでは毎日、大切なことを思い出させてくれる聖書の一節から
1日ごとに違った話題を、教えてくれます。

それをひとつのメタファーとして
読んだひとの無意識世界から、
どのような思いやアイディアが浮かび上がってくるかを
待ってみるのです。
それがひいては、「神との対話」へとつながっていく
ーーーそんな仕掛けになっているのでした。

たとえばきょうの一節は次のとおりです。
みなさんはどんなことが浮かぶでしょうか?連想されるでしょうか?

*****以下「祈りの場」から****

御言葉神はわたしたち一人一人に話されます。神が何をわたしに言っておられるかを聴く必要があります。テキストを2、3回読みかえして、そして、聴きましょう。

ルカ14:25~33 

 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。
「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、
父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、
これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、
わたしの弟子ではありえない。
あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、
造り上げるのに十分な費用があるかどうか、
まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。
そうしないと、土台を築いただけで完成できず、
見ていた人々は皆あざけって、
『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。
また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、
二万の兵を率いて進軍して来る敵を、
自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、
まず腰をすえて考えてみないだろうか。
もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、
和を求めるだろう。 だから、同じように、
自分の持ち物を一切捨てないならば、
あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」


主よ、あなたは私に何をおっしゃりたいのですか?


**************
これを読んだ私は、胸のうちに次のような声を聞き取りました。

「私に与えられた使命ーーーそれこそが<自分の十字架>であるわけだが、
その目的のためには、何もかもを投げ打って取り組んでいくことこそが
魂が求める本質なのだ」

と。今までもその心でひたすら研鑽を重ねてきています。
自然によって自分に与えられた指向性を、
タオセラピーを通じて入念・緻密に割り出し
それに従って生きることを、
ある意味ではあきらめ、ある意味では受け入れてきています。

その折にあらためてこの一節を読んで、
さらにもっと気合を入れ直して集中力を高めて頑張るのだ〜

そんな気分になりました。

なんとなくこういうことかな? と感じていたことが

さらなる「確信」に変わるので、心身の安定感も増します。


この聖書の一節は、ひとによってその真実はさまざまだろうと思います。

大事なことは、あなたのなかの真実に従って生きることにある、という

信念をもって、日々クライアントのみなさまの
お話しに寄り添わせていただきながら
ガイドさせていただいております。

きょうもありがとうございました。

明日もみなさまの心が平安とともにありますように。

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