自然に従って生きる。ということについて。
きょう、私はどうしたいかな?
私のスケジュールの立て方はいたって自由人。
大枠の構造だけ決めておいて、詳細は、
その日のインスピレーションに導いてもらう生き方となっています。
どうしてそうしているか?
「考え疲れ」。
・・・というか、
大枠の構造だけ決めておいて、詳細は、
その日のインスピレーションに導いてもらう生き方となっています。
どうしてそうしているか?
「考え疲れ」。
・・・というか、
もう何も考えたくない。
・・・いや、
精神の深みまで
降りてきてしまったのです。
ここにいたるまでに、わかったことは、
考えてわずらっても磨耗する一方だ、
ということ。
たとえばトラブルがあったとしても
自然(内なる自然のこと)が、私という存在を
しかるべきところに連れて行ってくださる、
それが人間の存在の神秘であり、素晴らしさであるということ。
どうして人間はこんなにも「防衛」とか「危機回避」とか
「思考」でぐるぐるとしてしまう生き物なのでありましょう。
***
先日の明け方、ひどい雷がありました。
うちのワンコは、猛烈、びびっていました。
くーんくーん。
ふだん、ついてこないのに、私がお手洗いに起きたら、トコトコとついてきます。怖すぎて。
彼(オスです)は、自然が恐ろしいということを本能で、よくわかっているのです。
私が彼に叱りつけるときは
「あー、やだやだ」と耳を下げる程度で、そこまでか細い声を出して恐れないのに。
自然物としての力量の大きい動物には、見習うところが多い気がします。
彼らは「自然を畏怖する」力が素晴らしい。
人間のなかで、「自分のなかに自然が存在する」ということを
本能的に知っている方というのは、意外と少ないのかもしれませんが、
もっとも人間に足りないもの、それは「(自然への)畏敬の念」ではないでしょうか。
ゲーテの言葉にこういうのがあります。
「生まれのよい健康な子供は多くのものを具えています。自然はすべての人に、一生の間必要とするものを全部与えました。これを発展させるのがわれわれの義務です。往々にしてそれはひとりでに一そうよく発展します。しかし、ただ一つだれも持って生まれて来ないものがあります。しかも、それこそ人間があらゆる方面にかけて人間であるためには、もっとも大切なものです。それを見つけることができたら、言ってごらんなさい。」ヴィルヘルムは暫く考えてから、頭をふった。
彼らは適当な間をおいてから叫んだ。「畏敬です!」ヴィルヘルムはあっけにとられた。ーーー「畏敬です!」と繰り返し言われた。「これはすべての人に欠けています。多分あなたご自身にも。」(「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」第2巻第1章から)
自然の波に乗ることはあっても
自然の勢いと私は真っ向から戦いたくありません。
自分の自然をつぶさに調べるワークはタオセラピーですが、
ひとえにそれをいかに畏怖しながらつきあって生きていくか?
フォーカスポイントは、ここだけで十二分であるように、私は思うのです。
だから私の朝のはじまりは、こう。
デロンギのカプチーノマシンでいれたやつです。 |
「ちょいと、私よ、おたくは今、どうしたいんかい?」
「ん〜、まずはカフェオレとトーストが食べたい」
最近のホームベーカリーは優秀です。 |
「ああ、そうですか、はいはい」
心が無になれる場所で、ぼーっとしているのです。
とかく、いろんなことはどうにかなっていくのですよね。
究極はーーー私は私を信じている。ーーーそんな感じです。
私のマインドは、私のスピリットに付き従うだけ。
私のスピリットさまにつき従わせていただく、そんな感じです。
インナーワークの精度を磨き続けてきているおかげもあるかもしれません。
タオセラピーの神言ワークでフレーム設定をシャープに整えたことも、大きなターニングポイントでした。
***
私はこの5年ほど、自分のスピリットとマインドを統合した個性化としての私に
ぴったり仕様のライフスタイルをつくることに命をかけてきました。
洋服選びから、時間の使い方まで、相当にこだわりぬいて、構築してきているし、
そうじゃなかったところは、しらみつぶしにする勢いで、調整をしてきています。
ぼーっと何も考えなくても、精神と肉体のセンタリングポジションのまま
ふらーっと行動できる状態に整えてきたのです。
ふらーっと行動できる状態に整えてきたのです。
いろんなことは、私が想像しているプロセスとはまったく違ってはいましたが、
よくよくつきつめてみれば、私が一番に望んでいた、ワーキングスタイルが手に入ったことだけは確かなのです。
生きていて、こんなに有難いことはありません、自分の軸のままに生きられる、ということ。
今日も感謝の祈りをこめて、このへんで。
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