自分を知る人は美しい
自分とは、小さな私が認める、私とは違う。
小さな私が追い求める理想の私とも違う。
大自然があなたを存在せしめる目的としての、私である。
エゴとスピリット
相反するどちらもの言い分をたばねて
ひとつの目的に向かって前進することのできる、私
ユングのいった個性化としての私
自己実現としての私
私は何者か?
↑ 朝、近所のベンチに新しくこんな天使像が!赤坂の街のなかで不思議な空気を醸していて、思わず魅了されました。
愛らしい祈りの姿。愛犬も速攻で反応して近寄っていましたw「世界が洗われますように。すでにおのれは救われたものであることに、たくさんのひとが気づける日が来ますように」。私にはそんな祈りが聴こえた気がした。これもインナーワークです☆
私には影がないというひとは、知らないだけである
おのれに影があることを知るひとは、真に謙虚たりえる
影を認めるとき、生きることが格段に楽になり、
小さな私が奮闘しようとする以上のパワーが生まれることを
経験したものは、人間の奥深さと神秘にふれて、
真に謙虚たりえる
「影」とは
コンプレックスを抱いている私
認めたくない私
知らないうちに、嫌ってしまった世界
避けてきた価値観
見ないふりをしてきた私の想い
やりすごしてきた私の本音
もろもろの背後で息をひそめている存在
大自然が豊かな風景を
陰影をもって表現するように
あなたの影もまた大自然の一部である
それは特に人間関係のなかでの
気持ちの高ぶりや荒ぶりとなって
無自覚に登場している
第一のカギは、その無自覚を自覚にかえること
無知は永遠だが
自覚は一瞬
この貴重な自覚の一瞬の連続が
あなたを「あるべき姿・生きる目的としての姿」に導いてゆく
影と真に
親しむことのできるものは
大切なあのひとはもとより
見知らぬ隣のあのひとも
みな人間の神秘に支えられた
不可思議な存在であることに
畏敬の念を抱くことができる
だけど、あのひとは、
まったく失礼なひとなんですけど!
それもまた真なりと
私は受け止める
一方で、
失礼なあのひとは、まだ知らないだけなのである
私であれば、慈しみのまなざしを向ける
おのれが何者であるのか、ということを
おのれが何者であるか、真に知りえたものは
宇宙の自然の摂理によって
おのれが生かされていることへの
感謝の気持ちに支えられている
生きとし生けるものすべてが
同じような節理のなかをめぐっていることへの
深い感銘を覚えるはずである
それはちょうど神々しくも荘厳で広大な
大自然のただなかで
目に見えない、神秘の稲妻に打たれて
心が洗われる、あの奇跡の一瞬のように
もしも
おのれの「影」を引き受けることのできた
真に謙虚な人間であれば
あなたと一線を引こうとするときですら
あなたを立てるすべを心得るために
あなたのなかに「失礼だ」という思いは
生じ難いはず
よって
「失礼だ!」
そう感じるあなたの感性にも
一理あるということに胸をはるといい
そのひとこそが
おのれのありのまま
とりわけ「影」の部分に対して
「失礼」をしでかしているために
あなたは「失礼されている」という気持ちに
陥らさせられるのである
面白いほど見事に鮮やかに
だから私はつねに自省をくりかすことを
習慣にする
「きょう、私が引き受けられてきていなかった
影の私は、どこかになかったか」
それは私の外の世界に現れ出る
外の世界との関係で
受け容れがたい心のゆさぶりや揺れの起きた場面を
ふりかえり、それを自らのものとして引き受けるための
インナーワークをくりかえす
それをすればするほど
わたしのなかで優しい気持ちが育っていき
ますます生きることが楽に感じられてくるために
この習慣をやめられない
そうすると不思議なことに
「失礼」なはずのそのひとから
「失礼じゃない」態度を
引き出すことさえもできるようになってしまう!
そして
真に謙虚なひとの瞳は
澄み渡り輝いている
瞳の奥の光をみれば
それはわかるもの
だから
私は
金銀宝石衣類その他で
着飾ることをしなくても
美しさをはんなりとにじませている
援助職者の先輩たちを
このうえなく尊敬している
彼らのたゆみない努力と苦労のあとを
その輝きの背後に垣間見ては
頭の下がる想いがするのである
私もまたそれに続きたくて
今日もその頂きを目指して
一歩一歩確かめるように進んでいる
真に美しいものとして輝き
多くのひとの希望を照らすひとになりたい
私の個性化の答え
中国古代由来の算命学のことばによれば
「自分を知らないということは
神を冒涜していること」
と手厳しい
幼少のころ
私はお仏壇の前で手をあわせて
誓ったのを覚えている
「私がいちばん好きなのは神様仏様です」
幼少の私にとっての神とは
私の命の背後で動いている
大自然と大宇宙のことだった
すべての出会い、別れ、誕生、成長
その因果と因縁、めぐりあわせの奇跡を
つかさどるものへの深い畏敬の念なしに
幼少の私はなかった
もちろん今も
そして大人になって
叡智をひもとく知恵を
身に着けた
私が悟ったおのれの命題
それは
自分(内なる神)を知ること
自分(内なる神)を守ること
その素晴らしさ、尊さ、美しさを
とことん追究することから
同時代に命を授かった
多くの魂を愛し、守り、救いたい
そのために
「お前は何ができるか?
お前は今この一瞬、何をしているか?」
この大自然・大宇宙・神からの
問いかけに答え続けるもの
それが私の
「お前は何者か?」
に対する答え
この命のはじまりのきっかけと結果のストーリーは
タオセラピーの陽世界を読み解くことで
見事に描かれていることに気づく
西洋錬金術師たちが
根源のひとつとした「ウロボロスの蛇」のごとく
おのれの循環スタイルにしたがって生きることができれば
命は輝き、見事に燃焼させていくことができる
ユング心理学でいう
「共時性」「コンステレーション」「布置されているもの」とは
このことをさしているのである
私が私の師匠F氏を
尊敬する理由は
彼は彼をよく知っているからである
(注)日本語では師匠を彼とはいいませんが、
端的に読みやすくするために、そうさせていただきます
彼の神(共時性)は
面白いほど「マスメディアとの相性が悪い」という形で出現するようで
私が紹介しても、いっさい断ってくる
彼には彼の神の目的を
限られた時間と肉体の世界で
表現しなければならない
「盆栽には選定が命」
と教えてくれたことを思い出す
つまり
彼は彼の神に従って生きることのできるもの
だから
私は彼を私の鏡とすることができる
彼が私の神を傷つけることはないだろうから
よって
あなたがもしも援助職者を選ぶのであれば
あなたが「いいな」と感じる「瞳の光」をもったひとを
探すのがいいかもしれない
そんな見地にいたる今日なのでした☆
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