みなさん、こんにちは。
けさ。
化粧水を肌になじませるために
両手のひらで顔全体を包み込むように
肌のうえをすべらせていて
ふと……。
いつもより、少しだけ
手のひらの内側と
肌の上の
感覚に対して
意識をより強くもってみたのでした。
すると……。
両手のひらがふだんよりも
こころなしか大きく感じられました。
すっぽりと顔全体を
その両手のひらでおおっていると
ふわっと安らかさを覚えました。
指の骨が顔を支えているかのような感触
しっかりとした骨格がそこにあって
それを深く意識することで
今ここにある肉体のありがたさが
こみあげてきました。
みなさんは今ここにある
五感に気を払うことはできていますか?
見る。見える。
聴く。聴こえる。
感じる。感じられる。
触れる。触れられる。
微細な動き。
身体の感触と感覚。
今ここにあるエネルギーに
気持ちを注いでいると
生きている実感とともに
時間が刻まれていきます。
思い通りにならないことは
やまほどありますが
それと同じぐらいか
それ以上に
恵まれているものも
数え上げたらきりがありません。
不満もありますが
それ以上に
満たされていることや
幸福なことにも
こころを向けることができる
大きなゆとりが生まれたのは
「自分が何者か」を
発見することができたからです。
それが自分という個性の中心、本質、軸となります。
「自分が何者か」を知るだけでは足りません。
それを「引き受ける」ための取組みもポイントです。
これは自我の滅却という、ひとつの悟りのプロセスでもあります。
そもそも私たちは自分が何者か
本当は知っているくせに
それをわざわざさけたり、逃げたり、遠ざけたりして
自分にとってもっと楽な道を選びたい
傾向も持っているからです。
そういう自分もまたどこかで
受け容れる力を養うことも
ありのままに生きるうえでは
はずせません。
さらに意識で引き受けて理解するだけでも足りません。
「引き受けたもの」をいかに「現実」で反映させるか?
まで達成することが待たれています。
また「自分が何者か」を
見つけていく行為は
「西洋錬金術の煮沸」作業にも相当します。
林道義さんの本によると広義の弁証法だと書いてありますが
私はそうは思っていません。
正がだめなら反にいって
それもだめなら合の道をGO!
という単純なものではなく
(きょうも錬金術の個人レッスン時にたとえの表現として
口を突いて出ていたのですが)
いうなれば、カレーのルウが
全材料をていねいに煮込んでつくりあげられる
みたいなものでしょうかね。
自分という存在のあらゆるエッセンスを
ぐちゃぐちゃにして鍋で煮込んで、
それらをぜんぶひっくるめて
まったく新しい独創的なオンリー1の自分、
でも確かにすべての要素がいきいきと活きている。
そんな感じです。
私の先生は
「さなぎから蝶への変態活動」にたとえます。
「何がでるかな何がでるかな」♪
それは本当にびっくりお楽しみBOXのようなものであり
同時に、
えらく懐かしい、遠い昔にそんなかすかな
片鱗を夢みたことがあったかもしれない
という、こころのダイヤモンドを発掘する感覚です。
「自己開花」。
「自己実現」。
たんねんに。
忍耐と信頼をもって。
ひとつひとつていねいに。
身体レベルでいうと60億個もの細胞で
私たちは構成されていることを思えば
深層心理のセラピーで
発見していかなくてはいけない
「見失われた自分」「無意識に隠された自分の一部」とは
それほどではないのではないと考えると、
小さな労ともいえるかもしれません!?
毎日1回セラピーしても
0歳から80歳までの間は、2万9200日しかありませんから
その数は、せいぜいが2万9200回程度ですから、
身体の細胞の数にはおよびませんw
***
かくいう私のいまのプロセス、どうなっているか?
自分でもすごい不思議なのは
エゴやマインドがしこたま傷つきを経験したおして
「いたーい、もういやー」と涙を流し倒した結果
むせびなくための力も枯れ果てるまで
もがきぬいた結果
私は「書く私」をやっとこ主体的に
「引き受け」はじめたのですが
ほかに歓びがないんですよね・・・。
書くことのほかに。
恋愛の痛手も
たしかにがっくりではありますし
「結婚したーい」
どうしておてんとうさまはこういうプロセスを私に!?
とエゴがきゃーすか
愚痴や不満もいいますが、
一方で
こころの奥深いところで
「やっと、主体者が目を覚ましてくれた!
やっと自由に解放された!」
と両手を広げて飛び出している
私自身がいるのを感じています。
そういえば、
アートディレクターをつとめている
私のクライアントの方が
ご自身がみたビジョンのひとつ
ファンタジーワールドのなかで
「大崎さんは、ミツバチになっている」
とおっしゃってくださっていましたが
(ありがとう!)
そんな飛ぶ生物にたとえるのは
私にぴったりかもしれませんw
癒し?
私は、臨床とお教室で精神世界を
たっぷり表現させていただいたあと
その日の「今ここの五感にあったもの」に
言葉を与える作業をしているときがいちばんなのです。
ですから
私のキャス・キッドソン・ショッピングもピタリとストップしましたよ。
キャスを買いまくっていたのは
自分のエネルギーの大きさという「枠組み」を認識するためと
さらに、ライフスタイルを激変させながら
24時間「私は私でいいのだ」と感じる「こころの容器」を
現実につくる必要があったからです。
(これは、私が過去に自分と思っていた生き方が
とんでもなく180度違ったところに
私のスピリットが存在したせいです。
私の生まれは、しょうしょうここの
かい離が激しい傾向があるので
みなさん、
げ!その取り組みはそこまでしなくちゃなの?
と驚く必要はありませんからね。
たんに私の場合はオーバーな事例として参照していただく程度にして)
でもそれもピリオド。
新しい私=魂が夢見ている私
の
「こころの容器」が完成したからです。
安心することができると
ぴゅっと「私の魂」「本性」が
顔を出しやすくなります。
亀とかヤドカリとかのイメージ。
自分の本質と向き合いやすくするうえで
重要な作業でした。
おかげで今は
本当にものもいらないし
外食もいらないし
旅行もどうでもいいし
洋服も「こころの容器」の完成を目指して
これまでにそろえてきた分で十二分。
お金もでていきません。
エネルギーが無駄にもれなくなったのです。
エネルギーがもれでない
自分だけの「枠組み」「こころの容器」
が何か?
を追求した結果です。
お金がうまくまわっていない。
という主訴のクライアントの方、
私の場合、少なくないのですが、
みなさま、ポイントはここですからね。
大切な「見失われた何か」を発見して
本来あるべき自分のアイデンティティで
新しいライフスタイルを推進することができるようになると
おさまりをみることができます。
+++
個性化
イコール
自分のライフスタイルや肩書などの「枠組み」のつくりかえ
と
自分が24時間安心安全を感じられる
「こころの容器」を現実の環境を整備しながら養うこと
と
自分がどんな意識・無意識によって構成されているかの「材料」
がでそろうこと。
これが整うと
勝手に自然のパワーが働いて
「変容」「変態」
は完成させられます。
シャガールが
「画家はキャンバスという十字架にかかっている」
と言いましたが、
変な感じなのは
私も言葉の世界という十字架および赤い靴を
かせられているかのようであるということ。
書くことは私にとっての祈りであり瞑想でもあり。
ドリーン・バーチューさんは
何時間でも1日でも瞑想していられるといっていましたが
まあ、それと同じです。
だって簡単なんですもの。
くりかえしますが
「今ここの五感に存在するもの」に意識を向けて
形を与えていくだけのことなのですもの。
あなたの魂が夢見ている
「個性化のすがた」にご興味ある方
「自分の生きる意味や目的」を見つけたい方
「自分だけのブレない軸」を発見したい方。
ご相談を大歓迎させていただきます♪
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